東京・八王子で座禅の体験 人間禅 八王子禅道場 - ブログカテゴリのエントリ
メインメニュー
検索
  • カテゴリ ブログ の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

ブログ - ブログカテゴリのエントリ

新型コロナウイルスの感染防止のため、3月1日、15日の日曜静座会(八王子クリエイトホール)は中止とします。間際で申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。 八王子座禅会 加藤葉子
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (6)
(3)茶の湯の女性化①
 現代茶の湯が流行しているのにもかかわらず、その内実においてすたれつつあるとすれば、その要因はどこにあるのでしょうか。
 時代の潮流の影響を受けていることはいうまでもありませんし、もちろん茶の湯の伝統を支えている人びとの責任が大きいのですが、ある人が、茶の湯の堕落は、茶の人口の女性化にあると指摘しています。一般のあいだに茶の湯が普及し茶はあたかも女性の占有物のようなありさまとなってきています。昔、茶席に女性が出ることさえ許されなかったことを思えば、隔世の感があります。
 茶の湯の普及の歴史をふりかえってみますと、結婚前に女性が茶を習うという風習が、明治以降の良妻賢母を育てる教育方針に伴い徐々に定着して、女性の茶人口が増加してきたのです。第二次大戦後は、女性解放、女性の経済的自立の潮流にのって、華道や舞踊などの他の伝統的芸能や、その他あらゆる分野の傾向と同様に、茶の世界への女性参加が急激に進んできました。学校、職場、社会のさまざまの教育分野で茶を稽古する女性の数が、かつてないほど多数にのぼってきたのです。
 このような大衆化が俗化につながりやすいのは茶の世界ばかりではありません。急速に進んだ生活様式の西欧化、利便化とともに、このような女性化が茶の世界に影響を与えずにはおかないでしょう。本質を見失い、趣味に止まり、遊芸に堕していると指摘される現状のなかに、たしかに女性化のひき起こした問題があるといえるでしょう。
 東洋的精神は茶道にもとづくもの、と主張した岡倉天心の『茶の本』などを学び、東洋の心にふれる期待をもって訪れる欧米人が日本の茶に接して、「どうして本当のお茶を私たちに御馳走してくれないのですか」と問いかけると聞きますが、たしかに、セレモニーとして、外国人を接待する今の茶会では、若い女性が着飾って、はなやいだ雰囲気のなかでお茶がすすめられますから、点茶の作法や特異性や、日本文化のはなやかな美に対して異国情緒は感じ取れるでしょうが、これでは本当のお茶をと言われるのも無理からぬことです。最近一般化したいわゆる大寄せの茶会では真の茶味は味わえないと思われるのですが、 茶会はほとんど大寄せとなってしまいました。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (9)
(2)茶の湯の現状②
 本来、茶の湯は、決して日常生活と縁のないぜいたくな遊芸ではありません。道具の多少や華美な衣装を誇る場でもありません。道具はありあわせ、衣服は清潔であれば十分です。茶室がなければならないことでもありません。利休当時の茶の湯の精神が失われてしまうことを恐れて、心ある人びとが、徳川時代以降引き続き、「利休に帰れ」という提言主張をしておりますが、現代においてはその必要がとくに強く感じられます。
 現代の日本は、物質的繁栄を追い求め、そこに価値を見出している時代で、その上に人間の幸せが築かれると考えております。たしかに、その成果として、貧困や無知や病気からかなり解放されてきていますし、大部分の国民は中流意識をもって、その繁栄を謳歌するに至っています。しかし、その反面、心の病む時代、心の貧しい時代ともいわれております。猛烈に働く今のサラリーマンの二十パーセントはうつ病の予備軍だと指摘されるほどですし、家庭で、学校で、社会で、さまざまな病理現象が急速に吹き出してきています。
 物質の洪水とその束縛から離れ、病める心の健康をとり戻すために、現代の人びとの心をとらえている価値観を、この辺で転換する必要がありはしないでしょうか。このような価値観の反対にある価値観が、利休の大成した侘び茶道のなかに見出されます。金で買うことのできない、かけがえのないもの、茶の世界にはそうした素晴らしい豊かな精神性、価値観が培われているのです。「利休に帰れ」という提唱は茶の世界に限らず、現代の社会の人びとにとっても重要なことのように思われるのです。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (27)
~スリップウェア作家 ボウエンさんに会うの巻~

以下、東京民藝協会の例会で気付かされた事実を記していこうと思う。
「スリップウェア」と聞いて連想するものは日本民藝館(駒場東大前)のあの品。体の横幅分もある長方形の形をした黄土色の大皿である。黒色の波目模様がゆらゆらと流れている。パイを焼くための皿。「魔女の宅急便」(スタジオジブリ、1989)で出てきたようなパイが出てくるのかしらと想像しているあの品。
 辞書で言葉の意味を調べてみる。

  スリップウェア(slipware)
  「装飾陶器の一種。化粧がけ陶器ともいう。陶器の素地に泥漿釉(スリップ)をかけ、いろいろな装飾文様を施した陶器。その最古の作例は古くローマ時代にまでさかのぼるが17世紀以来ドイツやイギリスにおいて盛んに作られた。また東欧や中央アジアの民芸陶器にも多い」 ブリタニカ国際百科事典(2011)

 まだまだ知らぬ世界を知るために、ギャラリー・セントアイヴスの11月例会に勇んで出掛けて行った。お題は英国のスリップウェアの作家である「クライヴ・ボウエン氏の実演とお話」。イギリスの土は色にほとほと徹するようだ。黒・黄土色・黄・緑・赤があり、同じ色に別の色の存在は微塵も感じさせない。色に徹するからこそ色の対比が美しく出るのだろう。ちょうど会場では「柴田雅明 クライヴ・ボウエン 二人展」を行っており、日英の陶器の比較ができて興味深い。
     例会で印象に残ったのはボウエンさんの実演。タイルに次々に絵付けをしていくのだが、その手捌きといったら!絵付けというと筆でさらさらと描くものと思っていたがそうでもない。何でもあり?の世界のようで櫛(コーム)、果てはお好み焼きのマヨネーズが入っていた3つ口?チューブも絵付けに使う。「さっ、さっ、さっ」という言葉が適当なようにカニ・魚・波目模様等を実に楽しげにそれに手早く描いてくれる。速さの秘訣は描き慣れているということもあるのだろう。加えて模様の一つ一つにボウエンさんのみならず、ボウエンさんの中にある作り手達の魂が混じり合っているからのようにも感じる。実に迷いがない。模様は産み出されるのを楽しみに待ち、簡素にのびのび産まれてきた。楽しげな様子は見る者にも伝播するようで、ボウエンさんの大きなあの手から一体次は何が産み出されるのかワクワクしながら見守った。
唐突に思う。これが「作る喜び」かと。日本民藝館の丹波焼の記念講演会で流れた柴田雅明さんの作陶の映像も重なる。今までやや厳しい面持ちで作陶していたのだが、窯から焼き上がった品々を一つ一つ手に取っては「良し」「良し」と言い、晴れ晴れとした笑顔で手に取るその姿。聴衆皆からも笑顔がこぼれた。
普段の生活を省みるに、自分の手からモノが産まれ落ちる際、喜びを持って見守っていただろうか?と。毎日の掃除をする際に義務感だけで行っていなかったか?扱った掃除用具、きれいになった床・何よりもそのものの空間をきちんと見つめていただろうか?何の感慨もなく、こなしていたのだとしたら人間ではなく、機械のような心だったのだろう。
作られたモノには喜びが添えられている。出来上がったモノを見ている生活だけでは気付かなかった視点だ。単純でありながら厳然とした事実にしばし愕然としたのであった。
民藝という切口であるものの、禅にも通じる切口である。一体禅と何の関係が…?と思われる諸君、そういうことだっちゃ。在る。ただそれだけで有難いのだ。
  翠珠 記ス
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (49)
(2)茶の湯の現状①
 ところで、現在、茶の湯の現状はどのようでしょうか。それは一口にいって、これから私が述べる本当の茶の湯、茶道というものからは大分遠いように思われます。
 茶道第一の書と言われる『南方録』の滅後の巻にはすでに、利休の言われた言葉として、次のように記されております。
「十年ヲ不過(すぎず)、茶ノ本道捨(すた)ルベシ」。この意味は、自分の死後、十年もたたないうちに、茶の本来の姿はすたるであろうというのです。そして、「スタル時、世間ニテハ却而(かえって)茶ノ湯繁昌ト思ベキ也」と続いています。本来の茶道の姿が見失われて行くであろうけれども、そういう時はかえって茶の湯が繁昌して、多数の人が関心をもつに違いないというのです。
 『南方録』は、利休の弟子南方宗啓が、平素の師の教えを書きとめた、いわゆる聞き書きですが、滅後の巻は利休の三回忌に際して書かれたと伝えられます。たしかに利休の死後、茶の湯は、その創成期の生き生きとした息吹きを失い、だんだんと硬直化、形式化の道をたどり、先人の遺した形や寸法に固執するのみで、自由な茶の心を失ってきているといわれます。
 利休流の茶の湯は、その子孫や弟子によって多数の流派に分かれて伝えられてきましたが、現在、茶を習う人口は今までにないほどの多数にのぼって、まさに繁昌しております。とくに婦人が好んで稽古をするようになりましたので、一見まことに茶の湯の世界ははなやかに隆盛しています。しかし、このように普及してきますと、安易に流れやすく、稽古事として、点前の順序や道具の扱い、作法を覚えるに止まって、茶道の本質が忘れ去られていくのではないかと思われます。
 元来、日常茶飯事の言葉の通り、茶の湯は日々の生活の営みに深くかかわってくるはずなのに、特定の茶室のなかや茶会のいわゆる晴れの場に限られて存在すると錯覚してきてはいないでしょうか。さらに茶会を催す折に、道具屋より目新しい高価な道具を備えて借りる風潮がみられると聞きますと、「茶の道すたるべし」の指摘の通りといわざるを得ないのではないかと思います。
 ある人は、このような稽古や茶会の現状を茶の湯の疑似体験と酷しく批評しております。にせの体験というのです。せっかく茶の稽古によって学んだ技法や心入れを日常生活に生かすまでに深めないならば、単なる手すさびに終わってしまうのです。一時の体験に止めてしまうのは、あまりにも惜しいことです。永年にわたって茶の湯を生活に浸透させ、それによって人間形成していくことが望まれます。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (44)
(1)茶の湯の側面②
 伝統的に培われた点前や道具、建物、庭など有形無形の深い趣をもつ茶の美に魅せられ、芸術的価値を見出している立場もありましょう。また、心のこもった社交の儀礼として、つまりセレモニーの方法と評価する見方もあります。
 なお極端な見方として、金持ちの道楽に過ぎないと否定的に見る見方があります。本来道楽とは、道を楽しむことで高次の楽しみのはずですが、現在普通に使われる意味の道楽とみなす見方です。財力にまかせて高い茶器を買い、ぜいたくな茶室を建てるなど、茶の湯が、庶民から遠い、金のかかる道楽となっているという批判です。
 たしかに、茶の湯文化は奥が深く、多面的な要素をもっています。人びとはそれぞれの立場や関心から自由に茶の湯にかかわっているのですから、見方や評価が分かれても仕方がありません。ここで以上のことを整理してみますと、茶の湯には、儀礼、社交、芸術、修行という性格があるといえると思います。
 そこで、本当に深く茶の湯の豊かな文化とその心を味わいたいとするならば、茶の湯の本質とは一体どんなものか、日本を代表する最も日本的な味わいとその文化体系とはどんなものか、もう少し茶の湯の世界に分け入って考えてみなければならないと思います。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (61)
(1)茶の湯の側面①
 まず茶の湯ということですが、日本文化のなかでも、最も日本文化らしい特色をもち、世界にも誇りうる極めて格調の高い文化といわれています。
 茶はもともと中国より伝わったものです。しかし、中国流の茶の製法と飲み方を取り入れてから、日本においては、茶の湯、茶道という独特の文化形式を育てあげてきたのです。つい先頃、日本の茶道のある家元の方が中国に行かれ、時の政治家や一般の方々に、日本式のお茶を点てて飲んで頂き、親善をはかったという報道がありました。つまりお茶の逆輸入によって文化交流を果たしたということです。中国の方々から、今までこのような飲み方を知らなかったと大変喜ばれたという話です。
 また先日は、ソ連の高官の来日を歓迎して、東京都で茶会を催したということも伝わってきましたが、このような例を挙げるまでもなく、日本文化を外国に紹介するときには、ほとんど決まったように茶の湯が取り上げられます。日本文化の代表のように扱われるわけですが、では、かえりみて、わが国の人々は茶の湯をどのように認識しているのでしょうか。これにはさまざまの見方や評価がなされています。
 第一に、茶の湯は非常に格式ばったやかましい作法があって窮屈な古めかしいものという表面的な認識があります。あるいは、若い女性が結婚前に礼儀作法を習う稽古事に過ぎないと見る見方もあります。あるいは、日本的に趣味や教養を身につける風流の道という位置づけもされていると思います。またお茶を通して人生を味わい人間形成をはかろうと願う人びともあるでしょう。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (93)
五戒の二番目は、怠けてはいけない。
これは正しく・楽しく・仲良くの中の、「楽しく」になります。
怠けてはいけないは人間の本能として、楽をしたい、ついつい怠けてしまうのです。これは毎日の積み重ねが大切なのですが、怠けない、毎日コツコツと積み重ねて実行すると言う事がなかなか出来ません。
ついつい楽な方に流れてしまいます。言葉は易しいですが、いざ実行するとなるとこれほど難しい事はありません。怠けずに自分で決めたことを毎日必ず実行する事は本当に大変です。毎日怠けない様にしたいものです。これが実行できると毎日が本当の意味で楽しく過ごすことが出来ると思います。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (124)

禅と茶道   緝熙庵内田慧純老禅子

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2019/11/29 16:29
1現代と茶道 利休に帰れ
 茶味という題で、これからお話をするわけですが、お茶の世界は、入れば入るほど奥深く、とても一片のお話でもって、その味わいを語ることはできません。ただ将来、茶道に親しまれ、その行に精進されて、茶味を味わいつつ豊かな茶の文化を楽しまれる契機となることを願いつつお話をすすめてみたいと思います。


今回、緝熙庵内田慧純老禅子の「禅と茶道」をブログに掲載しようと思ったのは、禅の蘊奥を極めた老禅子の語り口が素晴らしく、禅についても茶道についてもわかりやすく書かれているからです。茶禅一味と言われるように、禅の心を表したものが茶道と言えるのではないでしょうか。これから順次掲載していきます。(このお話は、千葉大学教養部の総合科目の講義で、「茶味―茶禅一味の茶について」と題してなされたものですが、後で「禅と茶道」という題に変えて一冊の書となったものです。) 加藤紫光
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (399)

坐禅から学ぶもの(7)   大石如法

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2019/11/18 16:15
 坐禅中、その瞬間、瞬間、自分がいま何をしているか、ただ漠然と坐っているだけではなくて、体をコントロールしています。息を整え、体を動かさないようにしています。そこで気をつけて頂きたいのは、自分の意志をすぐ行動に移さないということです。例えば、どこかが痒いと掻きたくなります。それをまず知ること。自分が動きたいことを知ればよいのです。そこで思考が止まります。足が痺れれば動かしたくなります。そういう欲や感情が生まれることは悪いことではありませんが、その姿を知ることです。その事実を知り、そこからふくらませないのです。そうすれば心や感情というものは、どんどん移っていきます。
 みなさんは、濁った水をコップですくってきたような状態です。黙って置いておけば、澄んできます。ところが自分でああしようこうしようと思ってしまう。これは、棒を突っ込んでかき回しているようなものなのです。坐禅というのは、止まるということが、実は動いているということの証になっています。独楽と同じです。しっかりと回っていれば、はたからは止まって見えますね。坐禅も無意識にコントロールできていれば、止まっていられる。それができずに足が痛い、おでこが痒いと思っていますとぐらぐらしてくるのです。
 私たちは誰しもが健康に心がけ、体を大切にすることを考えますが、残念ながら体は否応もなく衰えていきます。生まれるということは、いずれ死ぬことです。花というものは枯れるもの。これは真義です。真義の上から答えを導き出すこと、それを智慧といいます。ですから、最初の部分が真義でなかったら、そこから得られる知識は智慧とは言えません。これはみなさんそれぞれで気がついていただきたいことです。
 車で考えますと、タイヤを変えたりエンジンを直したりしましても、それだけでは走りません。運転手がきちんと運転しなければ車は走ることができない。
これを身体に置き換えますと、運転手に当たるのが心です。人間というのは、心が動かしているのです。でもその心をコントロールするのがなかなか難しい。私たちは、ずっと立っていますと坐りたくなります。ずっと坐っていますと立ちたくなります。お腹が空けばなにか食べたくなりますが、食べ過ぎれば今度は苦しくなってしまう。苦から楽へ行ったと思って気がつけば、また苦になっていた。こうしたことの繰り返しなのです。
 でもそんな私たちの道しるべとなるのがお釈迦さまの教えであります。曹洞宗では、お釈迦さまのことを大恩教主と申し上げます。お釈迦さまは父であり、最高の先生なのです。合掌
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (166)
Copyright © 人間禅西東京支部 2007-2013