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子育てと教育――禅にできること
 
人間禅西東京支部元支部長 笠倉玉渓

私は小学生の男の子を育てている母親です。現代の子育ては、核家族による閉鎖的な環境の中、情報があふれ、いったいどの方法で子どもを育てるのが正しいのか、と迷うばかりです。

この間は、とうとう小学生の男の子による母親殺し、また小学生の女の子による同級生の殺人までありました。

「親がパソコンのチャットを許していたのが悪い、」「いやいや時代が生んだ事件だ、子どものせいではない、」「いやいや学校教育が限界なのだ、」「昔のように外で遊べばいい、」等々・・・すべてがそうであって、しかしだからどうすればいい、という答えも出ない。今、私も私の周囲の多くの母親たちも、子育てについて、時に迷宮に放り込まれたような心細さを感じると言っています。

私たちが迷うようにいずれ子どもたちも成長の過程で同じように現代の波にもまれ、苦しむ日が来るかもしれません。母親たるもの、何とか我が子がしっかりと育ってほしいと願います。(おっとその前に自分もしっかりしなければ!)

ところでこの「しっかり」とはどういう状態なのでしょう。私は学生のころから坐禅をしていますが、最近はっきりとこれは有効だ、と思うようになりました。
人間は呼吸をします。息を整えれば心が整ってきます。あせると呼吸が浅くなります。この当たり前の人間の基本はかなり大切なことのようです。迷って自分を見失っている状態の時、ゆっくりと全身で深い息をしてみると、少しずつ自分が戻ってくるのがわかると思います。

このことを何か、自分の好きなことをしながら並行してやってみると、ぐんと集中力がついて自分を鍛えることにつながり、人間形成の手段として有効だと思います。それを私のやっている書道の教室でのひとコマで見ていただきたいと思います。

◆◆◆◆◆書道教室ことはじめ◆◆◆◆◆◆◆

<字は息?>
昨年から、思ってもみなかった書道教室を始めることになりました。事の始めは小学一年の長男が、全県一斉の書道展で県の金賞を取ってきたことでした。あちこちで「いったいどこで習っているの?」と聞かれ、「どこって、私がちょっと見てたのよ。」「どうやって?」「息をさせるの」「え?息?」「書いている間、横でふーーー、ふーーーってね。」ますます、なんだそれは!ということになりましたが、こちらにいわせれば、字を書くのだもの、息が基本でしょう?とかみあわない会話に皆で笑ってしまいました。

私は就職の時も、友達を作るときも、いつでも自分を知ってもらう時、禅の道場に行っている、というのが、最大の自慢なので皆そのことは知っています。そのうち、「息」というのは、いつもあの人が言っている禅に関係があるらしい、と周囲も理解してきたようでした。

<臨書のナゾ>
私は、お習字を小学校に上がったくらいから習い始め、30才過ぎまで、時々休憩はしましたが、続けてきました。常に習字は私と伴走してきたので、当たり前すぎて友達と話題にしたこともありませんでした。

しかし、その間たびたび疑問に思ったり、納得のできないことに当たったりしていました。そのひとつに「臨書」への疑問がありました。なぜそっくりに書くことをそんなに要求されるのか、真似の技術を磨くのが書道なのだろうか。しかし、一方で、個性を強調する書道もなにやら胡散臭くも感じていました。

書道の大会のようなものに行くと、書くことそのものが大好きな人が大勢いて、そのことはもちろん素晴らしいことなのだろうけれども、私にはなんというか、いきいきとした創造性が感じられず、マニアックな世界のようで、全く好きになれませんでした。

いろいろな疑問を抱えつつ、それでも行きつ戻りつしていた私は、ある日、光明皇后による「楽毅論」という文書をお手本に臨書することになりました。光明皇后は聖武天皇の皇后で、藤原不比等の娘です。いろいろな点から、とても興味深い人です。

しかし、字自体は癖も強くお手本とするような美しさは感じませんでした。なんとなく納得できない気持ちを抱えつつ書いているうち、人物や時代に興味もあったので、そのようなことも思い浮かべつつ、たぶんかなり集中していたのでしょう。ある字をそっくりに書いた時、はっとしました。なにやら彼女がとても近くにいるかのような・・・。

臨書、つまりお手本そっくりに書くには、筆の力の入れ方や、速度までそっくりでなければなりません。この時の光明皇后の字は癖が強いだけに、いつもよりこちらも強く身体で感じていたのでしょう。まあ、あなたったらこんなに力を入れていたの? ここはずいぶんささっと、書いちゃったのね!お手本をちゃんと見ているのかしら・・。 その感覚を持って、最後の彼女の署名、(これは皇后であるのに、藤原の娘、と書いているのですが)その力の入った字は、言ってみれば、民間から初めて皇后になった人が、さぞかし誇り高く父親を愛していたのだろう、と感じさせるようなものでした。もうイタコ状態!?とても楽しい瞬間でした。

それから私の臨書は、全く変わりました。たとえ書聖といわれる人であっても、遠くの誰かではなくなりました。

当然鑑賞はもっともっと楽しくなりました。さんざん臨書をして、速度、力加減、は自分の手が覚えているのです。命が吹き込まれたようでした。

<美しい字を書こう>
このような経験から、字を習う時は、心をオープンにして、身体ごと書くという行為に三昧になっていくことが大切だと思います。そのためには数息観のように息をゆっくりはいて途切れさせないことが大切です。頭ばかりが動いていると、ただの真似になってしまいます。そしておまけの私流は、そこに新しいことを習ううれしさでわくわくする気分をふりかけること!

習いに来てくれる人たちには、(午前中は大人の部)いつも「美しい字」を書きましょう、と言います。上手な字ではありません。字は所詮自分の手から出てくるものなのだから、自分以上でも以下でもないのです。美しい字は美しい状態から。きちんと全身で息をして、集中し、雑念のない自分そのものの状態から出てくる字は本当にすみずみまで心が入っていて美しいものです。大人も子どももそういう線が引けた時、私が「素敵!!」と叫ぶ間もなく感激しています。誰の目にも違いが一目瞭然だからです。上手は勝手にあとからついてきます。現にたった数ヶ月で学校で子どもたちがどんどん賞を取ってくるようになりました。お子さんが変わった、と学校の先生から電話のあったお宅もあったそうです。

皆さんには、「ゆっくり息ができて、集中力がつけば、いつでも自分らしくいられるでしょう?それが目的なんだから、別に習字でなくてもいいのよ、なんならうちの草取りや雑巾がけをやってくれてもいいんだけどな!私もさんざん坐禅の道場でやらされたんだから。」といって笑っています。

子どもには、宿題やテスト、野球など何かする前に必ずゆっくり息をしてね、と言っています。そして、子どもたちが騒ぎすぎたりすると「坐禅の道場に放り込むわよ!」が決め言葉で、するとどこまでわかっているのか「行ってみたーい!」の合唱です(しめしめ!きっとそのうち連れて行っちゃうぞ)。

<やってみるかな・・・>
私はいつも、もっともっと、いろんなことを知りたい、したい、と自分の仕事(ライターなんです)での成長や吸収ばかりに心が走っていました。そんな私に、今回思いもかけないアウトプットする機会が巡ってきました。書道の話が持ち上がった時も、最初は、まだまだ自分の仕事にめぼしがつかないのにとんでもない、と思っていました。

しかし一方で、私は道場のことを前述のようにいつでも人に話してきました。ただし五葉会(中央大学の禅のサークル名です。)で勧誘していた19才のときから、いつも必ず言ってきたのは、「禅はすごいよー、ということは私いっぱい言えるのだけれど、どうか私を見て判断しないでね、できていないとわかっているから行っているんだからね!禅がすごいことと私の能力は別の話なんだからね!」これは一種の逃げ?そうでもないのです。だからこそ、大きな声で誰にでも言ってこられたのだと思います。自分がどうみられるかなんて発展途中なのだから、そんなことより良いと思っていることを言いたい!と開き直ったまま・・・20年もたってしまいました。

今回はそれが行動に結びついてきてしまいました。求められるのも何かの縁かもしれないな、私自身は未熟で恥ずかしいけれど、今は自然にまかせてみようかしら、と思うようになりました。今でもこれが私の仕事、とは思っていません。しかし、何かがゆるゆると動いているかのような心地よさを感じます。


ライターとして就職した最初のクライアントと今でも縁があり、ときどきインタビュー記事などを書いたりしていますが、長年各界の著名人に会って思うことは、成功するには2つの道しかない、ということです。ひとつは、ごく若い時に好きな道を見つけ、一筋に歩き続けること。しかしこんな幸運な人はほんのひとにぎり。ほとんどは特別望んだわけではないが、目の前にあることをただ一生懸命にやってきただけ。一生懸命やれば、問題点も見えてくるからまたやる、のくりかえし。気がついたら後ろに道ができていた、という歩き方。そしてどちらも歩き始めれば苦労や災難にも、誠実にもくもくと取り組む。道は後ろにできるのみ。そう、まさに作務(掃除や草取りなど・他のことを考えたりせず集中して取り組む行のこと)なんです!これしかないんだなー、と毎回つくづく思わされます。

つまり、この長くなってしまった話の結末は、私は、たとえふってわいたごとくの出来事であっても、目の前に出てきたことに自分なりに一生懸命やってみようと思う今日この頃だ、ということなのです。以上です!

これは禅関係の出版物に最近掲載したものです。どうかこの方法での子育て・自分、育て、あるいは教育など、感じるものがおありでしたら、ぜひお話しましょう。ご意見などお待ちしています。

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