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参加者 一般の方 2名 会員 妙徳軒臼杵宗應 加藤紫光

年の瀬で参加者4名と少なかったのですが、茶話会では、Wさんと会員2名の母校が同じ中央大学で、懐かしい話で盛り上がりました。

【クリエイト静座会今後の予定】
 1月6日、27日、2月3日、17日
クリエイト静座会は基本第1、第3日曜日ですが、1月は第3日曜日が取れず、第4日曜日となりましたので、ご注意ください。
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 ・道元禅師:時代は遡って、臨済宗と並ぶ、もう一派の曹洞宗を述べる。曹洞宗は洞山良价が起こした事は既に述べたが、臨済宗が“公案禅”(看話禅)の一方、曹洞宗では“黙照禅”と呼ばれ、只管打坐が受け継がれた。坐禅中に「焼香、礼拝、念仏」などの余行をすることなく、ただひたすら黙々と坐禅のみを行うことを説く「非思量」の坐禅、すなわち坐禅中に公案を参究せず、無心に坐るので」ある。坐禅の姿がそのまま仏の姿であると説き、徹底した坐禅修行を必要とすることも特色の一つである。
道元は幼くして父母を失い、14歳で比叡山にて得度し、僧侶となった。18歳の時に比叡山を降りて栄西の高弟である明全を師とし、ともに博多から宗に渡った(1223年)。やがて曹洞宗の如浄を師と仰いで入室参禅し、遂に大悟する。如浄に学ぶこと3年、釈尊正伝の仏法を相承して帰国した。帰国後建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」を著し坐禅の仕方や心得を明らかにして広く人々に禅を勧めた。そのため、天台宗から圧迫を受け、建仁寺から追われて深草に移る。「典座教訓」を著すなどして修行者の生活規律を定めていった。さらに「正法眼蔵」(しょうほうげんぞう)の執筆も行われた。道元のもとに多くの僧侶が集まるようになり、それが比叡山を刺激し天台宗の圧迫を受けた。やがて越前に移った。これは如浄からの教えで「国王大臣に近づくことなかれ。ただ深山幽谷に居して一個半個を説得し吾が宗をして断絶到さしむことなかれ」を守ることでもあった。1246年永平寺に入る。執権・北条時頼の招きを受けて鎌倉に下ったが、弟子が永平寺に残っていることを理由に越前に帰った。その時、残務整理のために残っていた弟子の玄明に対し幕府から寺領寄進の申し出があった。玄明はこれを受けて永平寺に帰山し得意げに報告した。この時道元は玄明の衣をはぎとり、即日山から追放したのである。それのみか玄明が坐っていた僧堂の床を切り取り、その下を深く掘って捨て去ると言う徹底ぶりであった。「正法眼蔵随聞記」の一節に“学道の人は先ず須らく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う。・・・僧は三衣一鉢の他は財宝を持たず、居所を思わず、衣食を貪らざる(むさぼらざる)の間だ、一向に学道すれば分分に皆得益あるなり。その故は貧なるが道に親しきなり。”これが道元日頃の教えであった。それから3年後、後嵯峨天皇から道元に紫衣を賜った。再三辞退したが勅使が3度永平寺に至ったので遂に受けたが、終生これを用いなかった。
辞世の一句“またみんと思いし時の秋だにも今宵の月にねられやはする”
・孤雲懐奘(えじょう):道元のかたわらにあって影の形に添うようにその働きを助けたのは孤雲懐奘である。懐奘は31歳から56歳まで25年間道元禅師の侍者であり、片腕であり、良き相談相手であった。しかも懐奘は道元より2歳年上であった。懐奘は幼い頃に比叡山に登って出家し、学僧として名が高かったが宗から帰国して建仁寺にいた道元の弟子となり、生涯、道元に対して絶対服従であった。懐奘が修行しているとき、懐奘の母親の病気が重くなり臨終が近づいた。大衆は懐奘に同情して母親のもとに行くように勧めたが、行かなかった。以前に道元が亡き師明全和尚が瀕死の状態にあったにも拘わらず、師を後にして旅たったことがあり、その時の道元が「亡き師明全和尚について真実の道心があると考えたのは、或いは父母のため、或いは師匠のために、無益なことをしていたづらに時を過ごし、あらゆる道にすぐれた仏の道をさしおいて時日を過ごしてはならない」と言われたことがあったからである。後年、永平寺の住持となった懐奘は、方丈の側に道元の遺影を置いて昼夜に供養を怠らなかった。
・瑩山紹瑾:曹洞宗の展開に大きく影響を与えたのが瑩山紹瑾である。8歳にて永平寺の第三世・徹通義介に参じ、次いで懐奘について得度した。大きくなる教団に合わせて教団の規定を整える。また、多くの弟子を輩出し、日本各地に曹洞宗の法脈が伝えられることとなる。能登に総持寺の開山となる(1321年)
・臨済宗が将軍家と結びついて発展し、京都を中心とする文化的な側面にも大きな影響を与えていったが、一方、曹洞宗は地方に広がり、在地の武家、豪族、下級武士、一般民衆を中心に広まり、強い影響力を持つようになった。
・一休宗純(1394~1481):大徳寺の一休として天下にその名を知られた一休宗純は、およそ禅僧らしからぬ禅僧であり、かつ禅僧中の禅僧であった。後小松天皇のご落胤であるが権力の真っ向から挑戦し、詩人であり、孤高のひとであり、戦乱暗黒の室町時代にあって、常に民衆の味方であった。一休は堅田の華叟禅師の弟子となって、この人のもとで特別厳しい訓練を受けた。かれはしばしば漁師の舟を借りてその中で坐禅に打ち込んだ。一休27歳の5月20日の夜、漆黒の闇世の中、船の中で坐禅していると闇に一声「カアッ」と鴉が啼いた。その一瞬に大悟した。夜明けとともに華叟の室に入り、自己の心境を語った。華叟は黙って聞いていたが、それで良いとは言わなかった。「それは羅漢の境界だ。作家(サッケ・真に悟った者)の境界ではない」一休の大悟が真実のものかどうか、もう一押し押してみたのである。一休はこう言われてもびくともしない。「何と言われますか。これが羅漢の境界なら羅漢で結構。作家などにならんでよろしい。」と言下に言って退けた。その毅然として動かざる態度を見て、華叟ははじめて「お前は真実の作家である」と評して、印可書を書いて一休に与えたが、一休はそれを投げ捨てて出て行った。印可書というものはみだりに書くものではない。ところが当時の禅界は堕落その極に達していて、資格のない者にまでいい加減な印可書が安売りされていた。一休はそれを恨むこと甚だしかったのだ。その後、師の華叟が死んだ後、一休44歳の時にその印可書を渡され、それを見て師恩の深いことに感泣したが、17年前の彼の決意に変わりなく、涙を呑んでこれを裂き、火中に投じた。印可書の末尾に書かれた一句、「正法もし地に堕ちなば、汝、出世し来たってこれを扶起せよ。汝は我が一子なり」という華叟の慟哭にも似た言葉は彼の心中奥深く突き刺さったであろう。彼は次の如き賛を加えている。
華叟の子孫、禅を知らず
狂雲面前、誰か禅を説く
三十年来、肩上重し
一人荷担す、松源の禅
初祖達磨大師以来、二十五祖松源崇嶽、虚堂智愚、大応国師、大燈国師、華叟宗曇と続いた臨済禅の宗風、その重みはひとり狂雲子宗純の双肩にかかっていると自賛する。初祖達磨より数えて第三十三祖となる。』
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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⑥現代は「虚構の時代」と「いまの愛情の時代」の2つの価値観が両立し、葛藤している。
・一人の人間、若者の中でもこの2つの価値観が葛藤し引き合っている。
・未来に自分なりの目標・見本を置きそれに向かって生きたい気持ち(「虚構の時代」の価値観)もあるが、未来は不確実・世界は残酷で希望が感じられないからいまの自分の納得や満足を第一に、「いまやりたいこと」に集中したい気持ちもある(「いまの愛情の時代」の価値観)が、なにが正しいことなのかもわからない。
・「いま」を重視して生きていても、未来・自分の将来に対する不安がなくなるわけではない。また「自分なりの目標」を重視して生きていても、果たしてその努力は未来に報われるのか、将来の社会にも自分の仕事はあるのか、その目標は可能なのか、不安を持ち続ける。
・著者は、これから「いまの愛情の時代」の価値観が強くなっていくと推測している。

◎質疑応答
・ここまでについての感想。何か若者への見方の変化や発見はあったか。
・若者に対して感じるギャップ、よくわからないこと、聞きたいこと。
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「心の根源」を手に入れるために、小生が特に大切と思うことを二つ述べます。

●「大 疑 団」
禅の修行に励むには、「大疑団(だいぎだん)・大信(だいしん)根(こん)・大勇猛(だいゆうもう)心(しん)」の、「修道の三要件」が大切といわれています。
「大疑団」とは、人生の根本問題に関して、徹底して解決を求めていく大きな疑いのこと。「大信根」とは、①如是法の存在を信じること。②仏祖方が如是法を体得していることを信じること。③自分も如是法を悟ることができることを信じること。「大勇猛心」とは、大疑団を解決するための勇気のこと。
小生はこの三要件のうち、特に大切だと思うのは、「大疑団」です。禅でいう「疑う」とは、頭の中で考えるのではなく、体全体で工夫することです。初則でしたら『本来の面目』を徹底して疑うこと。つまり、 “本来の面目、如何(いかん)!如何(いかん)!……”寝ても覚めても、食事中でも、通勤途上でも、時間の許す限り疑う。「本来の面目」と「自己」とが一体になるまで、徹底して疑う。そして、「本来の面目」と「自己」とが一体になったことを「公案三昧」といい「成り切る」といいます。
  悟るには、この方法しかありません。「大疑(たいぎ)の下(もと)に大悟(たいご)あり」。疑いは大きければ大きいほど、喜びも大きいということです。禅宗の最も大きな特徴です。

●「自   力」
初則の公案を手に入れるには、相当な努力を必要とします。悟るには「大死(だいし)一番(いちばん) 絶後(ぜつご)に再鮮(さいそ)」といわれます。
「大死一番」とは前述の「本来の面目」と「自己」とが一体になった状態のことです。この「大死一番」の処まで自分を追い込むことが最も辛い処です。今迄の常識は通用しない。苦しいからといって、その場から逃げてはいけない。最後は勇気を奮い立たせ、自分の力でぶち破るのです。それが、「絶後に再鮮」です。努力すれば誰でも必ず悟れます。
他から教えられたものでは、喜びは湧きません。役にも立ちません。その喜びの大きさが、その後の修行にも大きく影響します。
≪臨済禅師≫ (臨済宗開祖)
 『汝 祖仏と別ならざらんと要せば 只 外に求むること勿れ。』
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クリエイト静座会の報告は下記の通りです。

参加者:一般の方 5名  会員 宗應

  いつもの通り3炷香実施。新到者としてSさん母娘が参加された。

母親ははるか以前に経験あり。娘さんは全く未経験であった。

坐相は二人とも良い坐相で2炷香体験して下山された。宗應 拝
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10月26日五葉会静坐会に参加。
参加者は学生6名と宗應で計7名でした。

12月1日に五葉会90周年記念行事の一環として静坐会を予定。
当日の使用の会場に全員で香盤、警策等を持って移動し、静坐前に堂内での基本清規を説明し、本番に向けて静坐を実施。
掛け軸の「一華開五葉結果自然成」に聖侍が献香、助警は警策を持って坐相を正す等の役位の役目を真剣に行った。
11月にはさらに先輩の指導を頂きたいと積極的であった。
以上  合掌 宗應 拝
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こんにちは。八王子座禅会の古江です。

11月17,18日は老師のいらっしゃる一泊参禅会を開催するとお伝えしておりましたが、
諸事情により、老師が来れなくなってしまったため、参禅会は開催できなくなってしまいました。
以前から予定を調整して頂いていたみなさま、申し訳ございません。

参禅はできなくなってしまいましたが、代わりに座禅に徹する、一泊集中打座会になります。
開始時間は毎週土曜日の坐禅会と同じ17時からになりますので、ご注意ください。
また、20時頃までいつもの会場(普門殿)は別団体が使用しているため、移動が可能になるまでは本堂の二階での開催となります。


【スケジュール】(曖昧ですみません、当日の参加者で相談します。)
●17日 土曜日
17:00 座禅開始(45分おきに休憩)
19:00ごろ、 宿泊希望者で相談して夕食。(調理はしません。)
夕食後、休憩終わり次第、座禅
21:30 ごろ    片付け・銭湯・随時就寝

●18日 日曜日
 06:00 起床
 06:20 座禅開始(45分おきに休憩)
 08:30 朝食(当日のメンバーでどうするか相談。食費は各自)
 09:00 解散、希望者はクリエイトホールでの座禅会へ。(12:30ごろまで)

【横浜近辺の座禅会】
また、横浜線沿いのみなさま。横浜でも姉妹道場の座禅会が開催されております。
合わせてご検討ください。

●横浜座禅クラブ
開催日時: 第1・第3日曜日 9時30分~12時30分
場所:   横浜市青少年育成センター 地下2階和室
 11月より、横浜市野毛地区センター

参加問合せ<hayashi.koji@jcom.home.ne.jp>

●大和座禅会
開催日時:ただいま不定期での開催です。
場所:   大和市コミュニティセンター中央林間会館が中心。
参加問合せ<yokoyama.740471@tea.ocn.ne.jp>

●茅ヶ崎静坐会
開催日時: 第2・第4土曜日 15時00分~17時00分
場所:   茅ヶ崎市小出コミュニティセンター
参加問合せ<K.Yamazawa@jcom.home.ne.jp>

すっかり秋めいてまいりました。
どうぞお身体ご自愛くださいませ。

みなさまと座禅をご一緒できますのを楽しみにしております。
合掌 八王子座禅会 古江 翼 
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10月24日の満月の夜の静座会は12名のご参加でした。28日が唐辛子地蔵祭りの行事とのことで、禅堂は会場設営がされていましたので、普門殿内の舞台の上で坐禅を致しました。
今回お見えの新しい方では、禅東院の近所の町内にお住いの保険営業の男性Ⅰさんがご参加で、「弱い自分の根本をもう一度見直したい」、「ブレない自分をつくりたい」とのことで、坐禅にいらしたそうです。年齢は41歳の私(大愚)と同級生で、若い時代の経験が似ていたこともあり、とても親近感を感じました。
静座会後には、山口県のお土産「山焼き団子」を頂き、温かいお茶を飲みながら満月の夜の歓談を楽しみました。
和やかなお話のなかで、皆さまからのご質問で、座禅の姿勢の工夫の仕方や、過去の忘れたい経験を手放す方法についてなどがでて、それぞれの方のお悩みや関心事に寄り添うことの大切さも、改めて学びになりました。

翌朝は坐禅の後、大石住職と曳きたて珈琲を頂いているときに、「傾聴」の大切さのお話もありました。ちょうど良い機会と思い、静座会に集まって見える方々からの「ご質問」を受ける時間を、静座会の前にでも設けたいと思いました。

松田大愚 拝
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・馬祖道一(唐、707~786):唐王朝を揺るがす「安史の乱」(755~763)があって、禅宗も各地に分派が興隆したが、中唐の時代以降最終的に禅門の主流を占めるのが馬祖道一の一門であった。六祖慧能―南嶽懐譲―馬祖道一の系譜を掲げつつ「即心是仏」「平常心是道」と説いた。
馬祖とその師である南嶽懐譲との出会いは以下のようであった。懐譲が般若寺と言う寺に行ったところ、馬祖が毎日坐禅をしていた。懐譲が問う。「あなたは毎日坐禅しているそうだが、坐禅してどうする気だ」「はい、仏になろうと思います」すると懐譲はどこからか瓦を拾って来て、石の上でごしごし磨ぎ始めた。気になるので馬祖が問うた「師よ、それを磨いてどうなさるつもりですか」「うん、これを磨いて鏡にしようと思っている」「瓦を磨いたって鏡なんかになりませんよ」「そうか、瓦を磨いたって鏡にならんか。それじゃ、坐禅して仏になれるのかな」南嶽の言うところは、坐禅と禅を履き違えるなということである。坐禅、坐ることは確かに大切であるが、坐ることは手段であって、禅そのものではない。ただ坐っているだけではどうにもならぬ。そこで馬祖は南嶽に問うた「では、どうしたらよいのですか」これに対する南嶽の返答は「人が車に乗って行く時、車が進まなかったら、車を打つのが良いか、牛を打つのが良いか」
・臨済宗、曹洞宗へ:六祖慧能から、南嶽懐譲、馬祖道一、さらに百丈懐海と続き、臨済義玄が臨済宗宗祖となる。一方、馬祖らの一派から別れて、慧能―青原行思―石頭希遷という系譜を掲げ洞山良价が曹洞宗を起こす。
・百丈懐海(唐、749~814):ある僧が百丈に問うた「ありがたいこととはどういうことですか」百丈は答えた「独坐大雄峰」大雄峰とは百丈山のこと。わしがただ独りこの大雄峰に坐っている。この事実ほどありがたいものはないと百丈は言う。まことに百丈の面目躍如としている。「おれがここにいる」どんなときでもそう言えたら、人生はどんなにすばらしいか。「百丈野狐」
・南泉→趙州従諗(じゅうしん)(778~897):若くして南泉の弟子になった趙州、ある日趙州は南泉に訪ねた。「道とはどういうものですか」「平常心が道だ」「そう仕向けるべきものですか」「仕向けようとすると違ったものになる」「それでも、考えなきゃそれが道であるということも分からないでしょう」「道は知にも属さず、不知にも属さない。知は妄想だし、不知はぼんやりしている。もし本当に疑いのない道に達したら太虚ががらんとしてあけっぴろげであるようなものだ。もうなんにもいうことはない」これだと趙州は悟った。平常心、無心、いずれも意識がどこにも引っかからずに生きて行けることである。素直にすっすっと体が動いて行くことである。当たり前のことを当たり前にやる、という事。例えば道は歩いて行くものである。歩いて行く道を離れて、抽象的な道を考えるということを趙州はしない。道を本当にちゃんと歩いている者なら、「道とはどんなものですか」というような事は問わない。道は自分で歩くより他はない。歩いて、歩いて歩き抜いて、無心に歩けるようになったとき、もはや道について問うことはない。
・唐から宋の時代になると、禅が文人官僚に広く浸透し、禅の制度化、社会的に組み込まれた。禅院が官寺として国家の統制下に置かれた。「五山十刹」の制度も成立した。また宋代禅は「公案」の時代と言われる。先人の問答の記録を禅門共有の古典“公案”として選定し、それを参究することが修行の中心となっていった。碧巌録がその代表。
・鎌倉時代、多くの僧が禅の教えを求めて中国・南宋に渡り、日本へと禅を伝えた。その代表的な人物が臨済宗黄龍派の禅を伝えた栄西であり、曹洞宗では道元である。
・明庵栄西:1202臨済宗の印可を受けて帰朝し、建仁寺(京都)を建立する。「興禅護国論」を著すなど興禅を意識し日本臨済宗史の起点となる。
・応燈関の法系:大応国師(南浦紹明)―大燈国師(宗峰妙超)―関山慧玄の3代を祖とする。中世以来の禅の一派。大応国師は鎌倉中期に宗に入り、宋朝臨済宗の一派、虚堂智愚の法を受け、太宰府の崇福寺にて30年、晩年、京の万寿寺、鎌倉の建長寺に移って多くの弟子を集める。その一人が大燈国師。
・1246年、蘭渓道隆が渡来し、北条時頼の開基で鎌倉に建長寺を開創、執権・北条時宗の招請で無学祖元が渡来して、1282年に円覚寺を開創した。さらに1292年南禅寺が創建された。
・鎌倉幕府が滅び、建武の中興を樹立した後醍醐天皇の支援を受けて、大燈国師は大徳寺を創建(1326)、天皇は大徳寺を本朝無双の禅苑とした。
・宗峰妙超(大燈国師):永年患っていた足を死ぬときぐらい言うことを聞け、と言って自分の手で足を折り曲げ結跏趺坐された。そのとき血が出て法衣が真っ赤に染まり、そのまま坐亡された。
 ・花園天皇も禅に深く傾倒し、大燈国師に参禅された。花園の離宮を禅寺とすることを発願し、大燈国師の法嗣、関山慧玄を開山として妙心寺を開創する。
 ・夢想疎石(夢想国師):南北朝時代に南朝の後醍醐天皇と、その敵であった足利尊氏の両方から尊敬されていた。七人の天皇から国師号を贈られていたので「七朝の国師」と言われた。木造や絵を見てもいずれも俗に“夢想肩”と言ってなで肩の非常に優しい高貴な感じの肖像である。ところがやさしいどころか大変きついところがあった方で、夢想国師の書かれた「二十三問答」の一節ある“ただ父母の縁によりて見え、かりにし縁つくれば、もとの如くなるまで也。・・・・・・実には生まれも死にもせず、生きるとても来るものもなく、死するとても去る者なし」
 人間が生きているということは、これは只父母の縁によって人間としてここにあるだけのことだ、実を言えば生まれることも死ぬこともない。その生まれることも死ぬこともないところをつかまえる。というのである。夢想国師の老婆親切である。
 ・室町幕府を開いた足利尊氏、更に三代将軍の足利義満の時代には禅寺(主に臨済宗系)が時の政権と結びつき、京都を中心として、その近辺に多く建立された。天龍寺、相国寺などが創建された。

参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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朝の随想   松田大愚

カテゴリ : 
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執筆 : 
八王子支部 2018/10/26 16:14
朝のひんやりとした静謐な空気のなかで、
鐘を鳴らし、二柱香の打座に打ち込む。
10月半ばの禅東院の境内はもう肌寒いくらいで、
身がピリッと引き締まる。

社会人として仕事をするなかで、
毎日の慌ただしい娑婆の事と格闘しながら、
日々の決断と行動の連続のなかで、

私も一人の人間として、
ときに、理不尽な怒りを感じるような場面や、
窮して落ち込む難しい状況など、
色んなことが、日々起こる。

家庭生活や、人間関係においても、
もちろんそうだ。

でも、この道場での
まっさらな朝の時間だけは、

「三昧」に浸りこむ坐禅の実践によって、
浮かんでくる雑念を空じて、

さらに、心中の一切を空じて、
ただ、天地の呼吸だけになる。

あれやこれやと湧き上がる雑念を、
さらには、燃えるような「数息」によって、

「私」の意識が生まれる根源へと尽くしながら、
己のなかの小さな自我を、
いったん焼き尽くし、捨て切っていく。

この、熱塊のような「三昧」の時間によって、
心の明鏡にこびりついた、
頑なな「我」の垢や錆がミジミジと蒸発し、
本来の、心の智慧が顕れてくる。

身も心も、また息を吹き返す。

道場に身を運び、
実際に坐を組むことの尊さを、
身体が、心が、想いだす。

【転迷開悟。(てんめいかいご)】
迷いを転じて、悟りを開く、と古人は言う。

日々の悩みや葛藤を糧として、
それを悟り(智慧)の豊かさに転じることで、
私たちの人間形成は一つずつ進んでいく。

また、【泥多ければ、仏大なり。】
との言葉もある。

悩みや葛藤が大きければ大きいほどに、
そこから受け取る悟り(智慧)の恵みは、
甚大であるとの意である。

娑婆世間の迷いのただなかに身を置いて、
切った張ったと毎日を生きながらも、

その都度に、「三昧」によって迷いを転じ、
自らの内に悟り(智慧)を見出していく。

社会人として、禅者として、
一番の基本は、

道場で身を正し、真剣に坐ること。

その日々の鍛錬を、
何度も、何度も、繰り返す。

やがては、その
娑婆と道場とがひとつの地続きになり、
ひいては、特段、迷いもなく、また悟りもなく、
今ここの、一歩ずつがそのまま、
自由の天地になる日まで。


松田大愚 九拝
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