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・足利政権下では大徳寺が五山から外され、また妙心寺が足利義満の弾圧で没収されたが日峰宗舜が中興し、応仁の乱で焼けた後も雪江宗深らの手で再建される。
・古渓宗陳(1532~97):正親町(おおぎまち)天皇の勅を受けて大徳寺を継ぐ。利休とは肝胆相照らす仲。多くの茶人を知る。古渓は秀吉の信も厚かったが、秀吉の勘気に触れて九州に流される。利休らがその赦免に奔走して帰京する。利休が、大徳寺山門安置の木像に起因して、秀吉の換気に触れ自刃。大徳寺長老2,3人も磔と大徳寺破却の処罰を受ける。磔は秀吉の母大政所の助力で中止となったが、破却は徳川家康などの使者が遣わされた。古渓は使者を前にして懐の刀を出し「貧道先ず死あるのみ」として抗議する。報告を聞いた秀吉は破却命令を撤回したと言う。
・沢庵宗彭:1628年紫衣事件(大徳寺諸法度を避難して幕府に抗議)にて流罪となったが、赦免される。1639年家光が江戸品川に開創した東海寺の開山となる。
・隠元隆琦:1654年、福建省黄蘗山萬福寺の隠元(63歳)を招請して、長崎興福寺に開堂して黄蘗宗を開く。やがて京都宇治の地に黄蘗山萬福寺の開山となる。隠元は当初中国人のために3年間だけ滞在するつもりで来たが、隠元が臨済宗の僧であったため、隠元の来日を知った多くの臨済宗、曹洞宗の僧達が多数馳せ参じた。当時の日本の禅界は300年間沈黙していたと言われ、そのため多くの僧が隠元の下に集まったと思われる。黄蘗の宗風は当時中国で行われていた禅淨蜜融合の仏教に沿ったものであった。隠元が渡来後はじめて興福寺で行った結制には多くの日本僧が参加していたが、妙心寺派の首座が黄檗僧に語った言葉は以下のとおりである。「其の家風を見るに、問道説禅、禅の如きものあり、忽ち高く弥陀仏を唱う。浄土宗の如きもの有り、真言宗の如きものあり」このように黄檗宗は西方浄土的であり、また密教的色彩をも有していた。日本の禅僧たちはこれに新鮮さを感じ取った人もあり、一方嫌悪感を抱く人もあった。いずれにしろ当時の日本の禅界に強い印象を与えた。
隠元の来朝は明代文化東漸の一環である。明より清への中国社会の変革に際して、東漸の動きは一段と強まる。清朝は塞外の女真族が建てた国である。異民族の支配を好まぬ有識者は、清朝の建国が決定的となるや、海外に活路を求め始める。黄檗の開創に象徴される中国近世文化の東漸は仏教の域に留まらず、広く精神文化の再編をはじめ、国学、蘭学、漢方、社会教育、福祉の普及より、さらに文人趣味を背景として煎茶や、普茶料理などの食生活の領域にも大きな変化をもたらした。 “インゲン豆”は隠元が日本にもたらしたとある。この他にも“孟宗竹”や“西瓜”“寒天”等をもたらしたとの説もある。また、読経の時に使う“木魚”。以前は魚の形のまま中をくりぬいて合図のために使用していたが、黄蘗派がもたらしたものは魚の模様のまま形を丸くして中をくりぬき読経のために使用するようになった。
隠元が渡来した後、黄檗派は急速に発展し、百年後には寺院千カ寺を超え、仏教界はじめとして多くの分野で影響を与えた。
・至道無難→道鏡慧端(正受老人)→白隠慧鶴:隠元の来朝で黄蘗派が勢いを増し、妙心寺でも黄蘗僧になったりと隠元に関心をしめして宗風の刷新を図る動きがあった。しかしそれはそれはかえって妙心寺に開創以来の伝統を堅持すべきことを再認識させる機会となった。愚堂東寔(とうしょく)は1659年妙心寺開山300年法要で導師を務め、今に臨済禅の法灯を伝える貴重な存在が妙心寺であることと、その重要性を説き、自力再興を掲げた。愚堂国師からいろいろと教えを受けたのが、至道無難禅師である。47歳のときに愚堂国師から『信心銘』の講義を聞き、その冒頭の「至道無難、唯嫌揀択」の一句に絶大な感銘を受け大悟したと言う。そのとき国師から「至道無難」の名を授けられた。もともと関ヶ原の庄屋であった無難は、たまたま立ち寄った愚堂国師に従って江戸までついて行き出家した。
「念のふかきは畜生、念のうすきは人、念のなきは仏」
他人についても自分についても無関心な、いい加減な人間。こんないい加減な人間が、そのいい加減さを反省することなく、ただ師匠の言いなりになったり、なだ念仏をとなえたりしたって、本当のところへいけるはずがない、と無難は考えた。だから人間は、いい加減な生き方を清算して徹底的に努力するところがなければならぬ。52歳で発心して坐禅に励んだ無難の眼から見ると、若年、壮年でぐずぐずしている人間の生き方が歯痒くてならなかったのであろう。
・正受老人:この無難から親しく印可を受け、正脈を伝えた弟子が、正受道鏡慧端禅師ひとりであった。19歳の時、江戸へ出て至道無難禅師に師事。20歳にして、その奥義に達し、その後信州飯山に正受庵を立てて隠棲します。『正受老人の書かれた「一日暮らし」の中に、有名な<一大事と申すは今日只今の心なり。>という句があります。一日一日とつとむれば百年、千年もつとめやすし。一生と思うからにたいそうである。一生とは永いと思へど後の事やら翌日の事やら、死を限りと思えば一生にはだまされやすしと。「一大事と申すは今日只今の心也」それをおろそかにして、翌日あることなし。総ての人に遠きことを思いて謀ることあれども、的面の今を失うに心づかず。』<『禅』誌46号(2014)鸞膠庵老師「禅者の死」より>
この正受老人によって仕上げられたのが、五百年不出の偉人と言われた白隠禅師。

参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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参加者 一般の方 2名
    会員 加藤紫光
今年最初の静座会。八王子駅から近く、冷暖房完備で居心地の良い環境で、座禅を求めていらっしゃる方達とご一緒するのは、一人で坐るより嬉しいものだ。
今日は部分日食あり、とWさんがしっかり目を保護するフィルターを持参された。曇り空で太陽は見えるか、とあやぶまれたが、静座の合間の5分休憩の間、しっかりと部分日食を垣間見ることができて、皆でウキウキまわし見た。
座禅の時は座禅、部分日食を見る時は見ることに集中した皆さん、もう、座禅もベテランだ。
茶話会どころではない、今日は部分日食DAYだ、と皆さんイソイソと帰られてしまったが、座禅の合間の天体ショーに皆興じ、座禅会が盛り上がった。

クリエイト静座会の日程ですが、1月は第3日曜が取れなかったので第4日曜の27日です。
2月は3日と17日、3月は3日と17日です。是非いらして下さい。
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■現代の若者と禅について思うこと。
・合理主義、効率主義、無駄なことや意味の無いことはできるだけ避けるべき、という価値観が主流の時代に育ってきた若者。  ⇒世代の「常識」と、長い努力を続けていく禅とはギャップがある。
「根性を鍛えたい、とりあえずやってみる」といった動機は少ないのではないか。
  禅門に来る若者は、世代の「常識」をはねかえすだけの積極的な動機をもった人が多いのではないか。
・「いま」「自分の感情」を大切にしている。
 ⇒「いま」の自分が、禅の道や人間禅支部に対して魅力や楽しさを感じられたら、スッと入ってのめり込んでいけるのではないか。過去や未来からの余計な障害がない。
・社会や未来に希望を感じられない。大きな目標をもって生きていない。
 ⇒禅の道(宗教)に希望や目標を感じると、かえって思い切り飛び込んでゆくのではないか。「常識」とのギャップを活かす。
  社会にはないもの、禅の道だけにあるものを発見する可能性。

◎質疑応答
・以前、若者はどのような流れで禅の道へ入っていくことが多かったのか。
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●「本来の面目」を師家から許されることを、「見性入理」といいます。「心の根源」を手に入れたということです。
見性しますと道号が授与されます。本格の修行の始まりです。
只、「見性入理」というのは、禅の第一歩を悟ったということで、これだけでは見性の喜びを感じることはできても、実生活では十分役に立ちません。まだ自分に納得した人生は送れないということです。そこで「悟後の修行」が必要になります。
悟りの臭みを抜き、実生活の場で、自分の心を鍛えていく。心という鏡を、一つ一つ丁寧に磨いていく。そして、磨かれた自分の心で、ものごとを正しく映し、正しく自由自在に使いこなし、ほんとうの人生を味わっていく。これが「悟後の修行」です。
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参加者 一般の方 2名 会員 妙徳軒臼杵宗應 加藤紫光

年の瀬で参加者4名と少なかったのですが、茶話会では、Wさんと会員2名の母校が同じ中央大学で、懐かしい話で盛り上がりました。

【クリエイト静座会今後の予定】
 1月6日、27日、2月3日、17日
クリエイト静座会は基本第1、第3日曜日ですが、1月は第3日曜日が取れず、第4日曜日となりましたので、ご注意ください。
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 ・道元禅師:時代は遡って、臨済宗と並ぶ、もう一派の曹洞宗を述べる。曹洞宗は洞山良价が起こした事は既に述べたが、臨済宗が“公案禅”(看話禅)の一方、曹洞宗では“黙照禅”と呼ばれ、只管打坐が受け継がれた。坐禅中に「焼香、礼拝、念仏」などの余行をすることなく、ただひたすら黙々と坐禅のみを行うことを説く「非思量」の坐禅、すなわち坐禅中に公案を参究せず、無心に坐るので」ある。坐禅の姿がそのまま仏の姿であると説き、徹底した坐禅修行を必要とすることも特色の一つである。
道元は幼くして父母を失い、14歳で比叡山にて得度し、僧侶となった。18歳の時に比叡山を降りて栄西の高弟である明全を師とし、ともに博多から宗に渡った(1223年)。やがて曹洞宗の如浄を師と仰いで入室参禅し、遂に大悟する。如浄に学ぶこと3年、釈尊正伝の仏法を相承して帰国した。帰国後建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」を著し坐禅の仕方や心得を明らかにして広く人々に禅を勧めた。そのため、天台宗から圧迫を受け、建仁寺から追われて深草に移る。「典座教訓」を著すなどして修行者の生活規律を定めていった。さらに「正法眼蔵」(しょうほうげんぞう)の執筆も行われた。道元のもとに多くの僧侶が集まるようになり、それが比叡山を刺激し天台宗の圧迫を受けた。やがて越前に移った。これは如浄からの教えで「国王大臣に近づくことなかれ。ただ深山幽谷に居して一個半個を説得し吾が宗をして断絶到さしむことなかれ」を守ることでもあった。1246年永平寺に入る。執権・北条時頼の招きを受けて鎌倉に下ったが、弟子が永平寺に残っていることを理由に越前に帰った。その時、残務整理のために残っていた弟子の玄明に対し幕府から寺領寄進の申し出があった。玄明はこれを受けて永平寺に帰山し得意げに報告した。この時道元は玄明の衣をはぎとり、即日山から追放したのである。それのみか玄明が坐っていた僧堂の床を切り取り、その下を深く掘って捨て去ると言う徹底ぶりであった。「正法眼蔵随聞記」の一節に“学道の人は先ず須らく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う。・・・僧は三衣一鉢の他は財宝を持たず、居所を思わず、衣食を貪らざる(むさぼらざる)の間だ、一向に学道すれば分分に皆得益あるなり。その故は貧なるが道に親しきなり。”これが道元日頃の教えであった。それから3年後、後嵯峨天皇から道元に紫衣を賜った。再三辞退したが勅使が3度永平寺に至ったので遂に受けたが、終生これを用いなかった。
辞世の一句“またみんと思いし時の秋だにも今宵の月にねられやはする”
・孤雲懐奘(えじょう):道元のかたわらにあって影の形に添うようにその働きを助けたのは孤雲懐奘である。懐奘は31歳から56歳まで25年間道元禅師の侍者であり、片腕であり、良き相談相手であった。しかも懐奘は道元より2歳年上であった。懐奘は幼い頃に比叡山に登って出家し、学僧として名が高かったが宗から帰国して建仁寺にいた道元の弟子となり、生涯、道元に対して絶対服従であった。懐奘が修行しているとき、懐奘の母親の病気が重くなり臨終が近づいた。大衆は懐奘に同情して母親のもとに行くように勧めたが、行かなかった。以前に道元が亡き師明全和尚が瀕死の状態にあったにも拘わらず、師を後にして旅たったことがあり、その時の道元が「亡き師明全和尚について真実の道心があると考えたのは、或いは父母のため、或いは師匠のために、無益なことをしていたづらに時を過ごし、あらゆる道にすぐれた仏の道をさしおいて時日を過ごしてはならない」と言われたことがあったからである。後年、永平寺の住持となった懐奘は、方丈の側に道元の遺影を置いて昼夜に供養を怠らなかった。
・瑩山紹瑾:曹洞宗の展開に大きく影響を与えたのが瑩山紹瑾である。8歳にて永平寺の第三世・徹通義介に参じ、次いで懐奘について得度した。大きくなる教団に合わせて教団の規定を整える。また、多くの弟子を輩出し、日本各地に曹洞宗の法脈が伝えられることとなる。能登に総持寺の開山となる(1321年)
・臨済宗が将軍家と結びついて発展し、京都を中心とする文化的な側面にも大きな影響を与えていったが、一方、曹洞宗は地方に広がり、在地の武家、豪族、下級武士、一般民衆を中心に広まり、強い影響力を持つようになった。
・一休宗純(1394~1481):大徳寺の一休として天下にその名を知られた一休宗純は、およそ禅僧らしからぬ禅僧であり、かつ禅僧中の禅僧であった。後小松天皇のご落胤であるが権力の真っ向から挑戦し、詩人であり、孤高のひとであり、戦乱暗黒の室町時代にあって、常に民衆の味方であった。一休は堅田の華叟禅師の弟子となって、この人のもとで特別厳しい訓練を受けた。かれはしばしば漁師の舟を借りてその中で坐禅に打ち込んだ。一休27歳の5月20日の夜、漆黒の闇世の中、船の中で坐禅していると闇に一声「カアッ」と鴉が啼いた。その一瞬に大悟した。夜明けとともに華叟の室に入り、自己の心境を語った。華叟は黙って聞いていたが、それで良いとは言わなかった。「それは羅漢の境界だ。作家(サッケ・真に悟った者)の境界ではない」一休の大悟が真実のものかどうか、もう一押し押してみたのである。一休はこう言われてもびくともしない。「何と言われますか。これが羅漢の境界なら羅漢で結構。作家などにならんでよろしい。」と言下に言って退けた。その毅然として動かざる態度を見て、華叟ははじめて「お前は真実の作家である」と評して、印可書を書いて一休に与えたが、一休はそれを投げ捨てて出て行った。印可書というものはみだりに書くものではない。ところが当時の禅界は堕落その極に達していて、資格のない者にまでいい加減な印可書が安売りされていた。一休はそれを恨むこと甚だしかったのだ。その後、師の華叟が死んだ後、一休44歳の時にその印可書を渡され、それを見て師恩の深いことに感泣したが、17年前の彼の決意に変わりなく、涙を呑んでこれを裂き、火中に投じた。印可書の末尾に書かれた一句、「正法もし地に堕ちなば、汝、出世し来たってこれを扶起せよ。汝は我が一子なり」という華叟の慟哭にも似た言葉は彼の心中奥深く突き刺さったであろう。彼は次の如き賛を加えている。
華叟の子孫、禅を知らず
狂雲面前、誰か禅を説く
三十年来、肩上重し
一人荷担す、松源の禅
初祖達磨大師以来、二十五祖松源崇嶽、虚堂智愚、大応国師、大燈国師、華叟宗曇と続いた臨済禅の宗風、その重みはひとり狂雲子宗純の双肩にかかっていると自賛する。初祖達磨より数えて第三十三祖となる。』
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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⑥現代は「虚構の時代」と「いまの愛情の時代」の2つの価値観が両立し、葛藤している。
・一人の人間、若者の中でもこの2つの価値観が葛藤し引き合っている。
・未来に自分なりの目標・見本を置きそれに向かって生きたい気持ち(「虚構の時代」の価値観)もあるが、未来は不確実・世界は残酷で希望が感じられないからいまの自分の納得や満足を第一に、「いまやりたいこと」に集中したい気持ちもある(「いまの愛情の時代」の価値観)が、なにが正しいことなのかもわからない。
・「いま」を重視して生きていても、未来・自分の将来に対する不安がなくなるわけではない。また「自分なりの目標」を重視して生きていても、果たしてその努力は未来に報われるのか、将来の社会にも自分の仕事はあるのか、その目標は可能なのか、不安を持ち続ける。
・著者は、これから「いまの愛情の時代」の価値観が強くなっていくと推測している。

◎質疑応答
・ここまでについての感想。何か若者への見方の変化や発見はあったか。
・若者に対して感じるギャップ、よくわからないこと、聞きたいこと。
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「心の根源」を手に入れるために、小生が特に大切と思うことを二つ述べます。

●「大 疑 団」
禅の修行に励むには、「大疑団(だいぎだん)・大信(だいしん)根(こん)・大勇猛(だいゆうもう)心(しん)」の、「修道の三要件」が大切といわれています。
「大疑団」とは、人生の根本問題に関して、徹底して解決を求めていく大きな疑いのこと。「大信根」とは、①如是法の存在を信じること。②仏祖方が如是法を体得していることを信じること。③自分も如是法を悟ることができることを信じること。「大勇猛心」とは、大疑団を解決するための勇気のこと。
小生はこの三要件のうち、特に大切だと思うのは、「大疑団」です。禅でいう「疑う」とは、頭の中で考えるのではなく、体全体で工夫することです。初則でしたら『本来の面目』を徹底して疑うこと。つまり、 “本来の面目、如何(いかん)!如何(いかん)!……”寝ても覚めても、食事中でも、通勤途上でも、時間の許す限り疑う。「本来の面目」と「自己」とが一体になるまで、徹底して疑う。そして、「本来の面目」と「自己」とが一体になったことを「公案三昧」といい「成り切る」といいます。
  悟るには、この方法しかありません。「大疑(たいぎ)の下(もと)に大悟(たいご)あり」。疑いは大きければ大きいほど、喜びも大きいということです。禅宗の最も大きな特徴です。

●「自   力」
初則の公案を手に入れるには、相当な努力を必要とします。悟るには「大死(だいし)一番(いちばん) 絶後(ぜつご)に再鮮(さいそ)」といわれます。
「大死一番」とは前述の「本来の面目」と「自己」とが一体になった状態のことです。この「大死一番」の処まで自分を追い込むことが最も辛い処です。今迄の常識は通用しない。苦しいからといって、その場から逃げてはいけない。最後は勇気を奮い立たせ、自分の力でぶち破るのです。それが、「絶後に再鮮」です。努力すれば誰でも必ず悟れます。
他から教えられたものでは、喜びは湧きません。役にも立ちません。その喜びの大きさが、その後の修行にも大きく影響します。
≪臨済禅師≫ (臨済宗開祖)
 『汝 祖仏と別ならざらんと要せば 只 外に求むること勿れ。』
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クリエイト静座会の報告は下記の通りです。

参加者:一般の方 5名  会員 宗應

  いつもの通り3炷香実施。新到者としてSさん母娘が参加された。

母親ははるか以前に経験あり。娘さんは全く未経験であった。

坐相は二人とも良い坐相で2炷香体験して下山された。宗應 拝
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10月26日五葉会静坐会に参加。
参加者は学生6名と宗應で計7名でした。

12月1日に五葉会90周年記念行事の一環として静坐会を予定。
当日の使用の会場に全員で香盤、警策等を持って移動し、静坐前に堂内での基本清規を説明し、本番に向けて静坐を実施。
掛け軸の「一華開五葉結果自然成」に聖侍が献香、助警は警策を持って坐相を正す等の役位の役目を真剣に行った。
11月にはさらに先輩の指導を頂きたいと積極的であった。
以上  合掌 宗應 拝
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