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2019年の始まりから「白隠 禅画の教え」(著=芳澤 勝弘)の日めくりカレンダーめくりが日々の楽しみになっている。(以下、随所の引用はここより)毎日フムフムだ。白隠とは江戸中期の禅僧で、臨済宗の中興の祖。「駿河には過ぎたるものが二つある、富士のお山に原の白隠」と当時から言われていたそうな。いわゆる「有名人」である。人間禅は臨済宗の流れを汲んでいるため、「白隠坐禅和讃」がどことなくなじみ深い。しかし、禅画に込められた意図を解するのは並大抵ではない。白隠さんは相手によって禅の教えを変えて説く。白富士に禅の神髄を込めて「なるほど!」と思う禅画もある。また、鬼が味噌こぎで擂られてしまうものに、なぜ擂られねばならんのだ!とまだ「?」な禅画もある。布袋さんが日々現れては消え、その笑顔が秘めるゆるさ加減にほっこりしつつも、深淵な意味に吃驚することも。何かは問わず、モノを突っ込んだ袋を担いでいるのが布袋さん。「無一物中無尽蔵」。彼の人物の登場は、無から一切が生成するという教えを説いていた。
繁忙期と相俟って、休日も仕事にストーカーされている!、とそこはかとなく感じる今日この頃。あれもこれもしたいが、時間がそんな余裕を許してくれない。あれもこれもできる時間をひねり出すのか現在の私の命題である。どうしたら良いのだろう。あれもこれもの執着を捨てれば良いのか?日々の工夫で時間をひねり出せるのか?
そんな時、布袋さんの示す意味をじっくり心に念じてみるのであった。
平成31年如月 翠珠記ス 
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・近世初期の臨済宗には、公案禅を標榜し修禅専一とした宗風に弛みを見せ、禅問答も形骸化している実態があった。それを知る一つが、問答の答案を秘密裏に伝える口訣伝授の密参禅である。そうした臨済禅を直視し、禅僧に明眼の師はない、それらしく振舞う邪師や外道の師ばかりで、俗士にも劣る禅僧が世に溢れ、徹底究明の悟道を体得した禅者いないなどと、その危機的状態を直視し、悟道のための真剣な修禅による祖師禅の復興を目指した正法の復興に意欲的な禅僧が、愚堂東寔(とうしょく)等の妙心寺派の禅僧であった。近世中期に至り、さらに臨済宗復活の契機を起こしたのが、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠慧鶴であった。白隠は見性開悟を第一義とする実践的立場において「隻手音声」の公案を開発し、公案の体系化図るなどして白隠禅を大成した。
・「駿河の国に過ぎたるものが二つあり。富士のお山に原の白隠。」
・白隠は11歳の年に、昌源経寺と言う寺で窪金の日厳上人が『摩訶止観』を講義するのを聞いた。摩訶止観の中に地獄の相を説く部分を講じたのであり、焦熱紅蓮の地獄の有様を聞いた白隠は、身の毛もよだつ恐怖感に駆られた。一日、母と入浴しているとき、女中が薪をどんどん焚き、湯はたぎり、炎が燃え上がると、幼い白隠は地獄の責め苦を思い出して号泣する。母はこの感性の烈しい少年にこう教えた「西念寺においでる天満天神に一心にお祈りすれば、地獄の苦しみから救って下さる」。この日から白隠は一心に菅公を念ずる人となる。12歳の年に祭りの芝居で日親上人が焼けただれた鍋を頭に冠らされたが、法華経信心の力で火傷を負わなかった霊験談を見て感動、数日後、焼火箸を股に押し付けひどい火傷をした。白隠は失意し、恐怖心を抱き、やはり出家せねば救われぬと考えて、父母に出家せんことを乞うたが許されなかった。これらの事は、白隠少年の感じやすい魂に消しがたい印象を刻み込んだと思われる。白隠も墨跡に天神様を描いたものや、“南無地獄大菩薩”の文字を数多く見るのは、少年時代の強烈な印象や体験がその尾を曳いているとみるべきである。
・白隠さんに関するもう一つ。白隠さんは若い修行時代には激しい禅の修行のために胸を患い、今で言うひどい神経衰弱になり明日をも知れぬ身となった。その時縁あって、京都山中に白幽仙人を知り、「内観の法」を授かり元気になったとあり、また、『独り按摩』を考案された。弟子や一般信者の健康を願って創られたと思われる。
『独り按摩』の伝 抜粋:①手の平を摺る ②指を組む ③揉み手・・・⑨鼻の左右を摺る ⑩額を左右に摺る・・・㉒指を組み、鼻の通りへ上げ膝を打つ ㉓左右のこぶしを以て臍裏背肩を打つ
以上初伝。<『禅』誌11号 独りあんま(前編)矢野豊彦>
・84歳を迎え、身体の不調を感じるようになり、暁天に高いいびきをかきながら眠っていて、にわかに「大吽(うん)一声」して、右を脇にして寂された。1768年行年84歳。

・大愚良寛(1758~1831):曹洞宗の禅僧。良寛はひとの家を訪問しても、時には台所のかまどの火を焚いたり、仏間で坐禅したりするばかりで、別に経文の解釈もせず善いことをしなさいと言ったりもせず、道義について言うわけでもでもない、それでいて、良寛がいるだけで家の中が和やかになり、帰った後も数日は家の者がニコニコしていたと言う。修行時代の良寛の同輩に仙桂和尚という人がいる。いつも畑仕事ばかりしている人で、若い良寛にはこの人の値打ちが分からなかった。しかし後年、越後に帰った良寛は、この仙桂和尚そっくりの生き方をする。修行に一途になっていると、自分の修行だけがよく見えて、反対のものはみなつまらなく見える。そういう人間を夜郎自大という。仙桂和尚のような、禅僧だか、百姓だかわけのわからぬ生き方をしている人間を修行一途の良寛が無視しようとし、軽蔑しようとしたが、そうしきれぬものが残ったのである。
良寛は世間の規範にとらわれない脱俗・超俗の人柄が伝えられています。それが我々に懐かしさを抱かせ、ぎすぎすした現代の中で一服の清涼剤となっているのだと思う。このような人柄が伝えられる一方、良寛は非常に厳しい修行をされた本格的な禅僧でもあった。18歳で出家、22歳で国仙和尚について禅の修行をした。修業中は、托鉢に行っても誰の顔をも覚えてなかったと伝えられている。動中の禅と言うのでしょうか。どんな場合も一心に心を統一していた。その後行脚してさらに故郷の越後に帰って、子供らと遊んだり、農夫と畦道で酒を飲んだりする一方で「僧侶である自分が、どうして虚しく時間を過ごすことができようか」と厳しい反省を行っている。

「無心」 花は無心にして蝶を招く 蝶は無心にして花を尋ぬ
     花開く時蝶来たり 蝶来る時花開く
     吾も亦人を知らず 人もまた吾を知らず
     知らずとも帝則に従う


参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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 テニスの全豪オープンで優勝した大坂なおみ選手。恵まれた体格。ずば抜けた身体能力。そして、大坂選手がよく口にする言葉「インナーピース」。これが、大坂選手の精神面の成長を支える鍵のようだ。「内側の平和」「内なる平穏」心穏やかな時にいいプレーができるという。「平常心」と解説する人もいるし、「台風の目」と解説する人もいる。「台風の目は静かで穏やかだが、周りには大きなエネルギーが渦巻いている。嵐の中でも自分は安定した場所にいて、必要なことだけが見えている。」
 スポーツは、身体能力を極めることが第一だが、常にメンタルの強さが求められ、それがプレーに即現れる。メンタルの強い人が一流と呼ばれる。
 この「インナーピース」という言葉を聞いて、禅の修行をしている私としては、インナーピースが基本だな、と思った。座禅はボーっと無念無想で息をしているのではない。精神が活き活きと鍛えられ、どんな荒れ狂う嵐の中でも落ち着いて行動できる心を養える。禅には「忙中に閑あり」「閑中に忙あり」という言葉がある。「忙しい時でも、落ち着いて安定した閑とも言える心で物事に対処する」「のんびりしているように見える時でも、心は活き活きと活動している」という意味だ。
 大坂選手は、女子テニス界で世界第一位の頂点を極めた。その基本の心「インナーピース」は奥が深い。「心は五歳児になった」と笑わせる21歳の女王。私は「内側の平和」「心の平穏」「冷静・落ち着き」等を求めて、座禅を続けたいと思う。大坂選手のこれからの活躍と心の成長を見つめながら。
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●在家禅とは、会社員、自営、主婦、学生等で禅の修行に励むことです。禅の修行は自分だけ悟ればそれでよい、自分がよければ後はどうでも良い、というものではありません。それはほんとうの悟りではありません。
実際の場で仲間とともに、自分の心を磨いていく。自分の置かれた環境の中で、できる範囲で、自利利他行を果たすことが大切です。禅はあくまでも、「実践の行」です。これが「在家禅者」のあるべき姿です。

●といっても、難しいことを言っているのではありません。
会社員は会社員らしく。主婦は主婦らしく。商売人は商売人らしく。学生は学生らしく。「……らしく」が人間形成の極といわれています。
生活+(プラス)禅ではなく、生活=(イコール)禅。生活の他に禅の修行があるのではなく、生活の中にある禅。そうでないと修行は続きません。人生を味わうこともできません。苦痛に思うだけです。
その点で、人間禅の特徴である「在家禅」は、最も禅の修行に適していると思います。
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・足利政権下では大徳寺が五山から外され、また妙心寺が足利義満の弾圧で没収されたが日峰宗舜が中興し、応仁の乱で焼けた後も雪江宗深らの手で再建される。
・古渓宗陳(1532~97):正親町(おおぎまち)天皇の勅を受けて大徳寺を継ぐ。利休とは肝胆相照らす仲。多くの茶人を知る。古渓は秀吉の信も厚かったが、秀吉の勘気に触れて九州に流される。利休らがその赦免に奔走して帰京する。利休が、大徳寺山門安置の木像に起因して、秀吉の換気に触れ自刃。大徳寺長老2,3人も磔と大徳寺破却の処罰を受ける。磔は秀吉の母大政所の助力で中止となったが、破却は徳川家康などの使者が遣わされた。古渓は使者を前にして懐の刀を出し「貧道先ず死あるのみ」として抗議する。報告を聞いた秀吉は破却命令を撤回したと言う。
・沢庵宗彭:1628年紫衣事件(大徳寺諸法度を避難して幕府に抗議)にて流罪となったが、赦免される。1639年家光が江戸品川に開創した東海寺の開山となる。
・隠元隆琦:1654年、福建省黄蘗山萬福寺の隠元(63歳)を招請して、長崎興福寺に開堂して黄蘗宗を開く。やがて京都宇治の地に黄蘗山萬福寺の開山となる。隠元は当初中国人のために3年間だけ滞在するつもりで来たが、隠元が臨済宗の僧であったため、隠元の来日を知った多くの臨済宗、曹洞宗の僧達が多数馳せ参じた。当時の日本の禅界は300年間沈黙していたと言われ、そのため多くの僧が隠元の下に集まったと思われる。黄蘗の宗風は当時中国で行われていた禅淨蜜融合の仏教に沿ったものであった。隠元が渡来後はじめて興福寺で行った結制には多くの日本僧が参加していたが、妙心寺派の首座が黄檗僧に語った言葉は以下のとおりである。「其の家風を見るに、問道説禅、禅の如きものあり、忽ち高く弥陀仏を唱う。浄土宗の如きもの有り、真言宗の如きものあり」このように黄檗宗は西方浄土的であり、また密教的色彩をも有していた。日本の禅僧たちはこれに新鮮さを感じ取った人もあり、一方嫌悪感を抱く人もあった。いずれにしろ当時の日本の禅界に強い印象を与えた。
隠元の来朝は明代文化東漸の一環である。明より清への中国社会の変革に際して、東漸の動きは一段と強まる。清朝は塞外の女真族が建てた国である。異民族の支配を好まぬ有識者は、清朝の建国が決定的となるや、海外に活路を求め始める。黄檗の開創に象徴される中国近世文化の東漸は仏教の域に留まらず、広く精神文化の再編をはじめ、国学、蘭学、漢方、社会教育、福祉の普及より、さらに文人趣味を背景として煎茶や、普茶料理などの食生活の領域にも大きな変化をもたらした。 “インゲン豆”は隠元が日本にもたらしたとある。この他にも“孟宗竹”や“西瓜”“寒天”等をもたらしたとの説もある。また、読経の時に使う“木魚”。以前は魚の形のまま中をくりぬいて合図のために使用していたが、黄蘗派がもたらしたものは魚の模様のまま形を丸くして中をくりぬき読経のために使用するようになった。
隠元が渡来した後、黄檗派は急速に発展し、百年後には寺院千カ寺を超え、仏教界はじめとして多くの分野で影響を与えた。
・至道無難→道鏡慧端(正受老人)→白隠慧鶴:隠元の来朝で黄蘗派が勢いを増し、妙心寺でも黄蘗僧になったりと隠元に関心をしめして宗風の刷新を図る動きがあった。しかしそれはそれはかえって妙心寺に開創以来の伝統を堅持すべきことを再認識させる機会となった。愚堂東寔(とうしょく)は1659年妙心寺開山300年法要で導師を務め、今に臨済禅の法灯を伝える貴重な存在が妙心寺であることと、その重要性を説き、自力再興を掲げた。愚堂国師からいろいろと教えを受けたのが、至道無難禅師である。47歳のときに愚堂国師から『信心銘』の講義を聞き、その冒頭の「至道無難、唯嫌揀択」の一句に絶大な感銘を受け大悟したと言う。そのとき国師から「至道無難」の名を授けられた。もともと関ヶ原の庄屋であった無難は、たまたま立ち寄った愚堂国師に従って江戸までついて行き出家した。
「念のふかきは畜生、念のうすきは人、念のなきは仏」
他人についても自分についても無関心な、いい加減な人間。こんないい加減な人間が、そのいい加減さを反省することなく、ただ師匠の言いなりになったり、なだ念仏をとなえたりしたって、本当のところへいけるはずがない、と無難は考えた。だから人間は、いい加減な生き方を清算して徹底的に努力するところがなければならぬ。52歳で発心して坐禅に励んだ無難の眼から見ると、若年、壮年でぐずぐずしている人間の生き方が歯痒くてならなかったのであろう。
・正受老人:この無難から親しく印可を受け、正脈を伝えた弟子が、正受道鏡慧端禅師ひとりであった。19歳の時、江戸へ出て至道無難禅師に師事。20歳にして、その奥義に達し、その後信州飯山に正受庵を立てて隠棲します。『正受老人の書かれた「一日暮らし」の中に、有名な<一大事と申すは今日只今の心なり。>という句があります。一日一日とつとむれば百年、千年もつとめやすし。一生と思うからにたいそうである。一生とは永いと思へど後の事やら翌日の事やら、死を限りと思えば一生にはだまされやすしと。「一大事と申すは今日只今の心也」それをおろそかにして、翌日あることなし。総ての人に遠きことを思いて謀ることあれども、的面の今を失うに心づかず。』<『禅』誌46号(2014)鸞膠庵老師「禅者の死」より>
この正受老人によって仕上げられたのが、五百年不出の偉人と言われた白隠禅師。

参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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参加者 一般の方 2名
    会員 加藤紫光
今年最初の静座会。八王子駅から近く、冷暖房完備で居心地の良い環境で、座禅を求めていらっしゃる方達とご一緒するのは、一人で坐るより嬉しいものだ。
今日は部分日食あり、とWさんがしっかり目を保護するフィルターを持参された。曇り空で太陽は見えるか、とあやぶまれたが、静座の合間の5分休憩の間、しっかりと部分日食を垣間見ることができて、皆でウキウキまわし見た。
座禅の時は座禅、部分日食を見る時は見ることに集中した皆さん、もう、座禅もベテランだ。
茶話会どころではない、今日は部分日食DAYだ、と皆さんイソイソと帰られてしまったが、座禅の合間の天体ショーに皆興じ、座禅会が盛り上がった。

クリエイト静座会の日程ですが、1月は第3日曜が取れなかったので第4日曜の27日です。
2月は3日と17日、3月は3日と17日です。是非いらして下さい。
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■現代の若者と禅について思うこと。
・合理主義、効率主義、無駄なことや意味の無いことはできるだけ避けるべき、という価値観が主流の時代に育ってきた若者。  ⇒世代の「常識」と、長い努力を続けていく禅とはギャップがある。
「根性を鍛えたい、とりあえずやってみる」といった動機は少ないのではないか。
  禅門に来る若者は、世代の「常識」をはねかえすだけの積極的な動機をもった人が多いのではないか。
・「いま」「自分の感情」を大切にしている。
 ⇒「いま」の自分が、禅の道や人間禅支部に対して魅力や楽しさを感じられたら、スッと入ってのめり込んでいけるのではないか。過去や未来からの余計な障害がない。
・社会や未来に希望を感じられない。大きな目標をもって生きていない。
 ⇒禅の道(宗教)に希望や目標を感じると、かえって思い切り飛び込んでゆくのではないか。「常識」とのギャップを活かす。
  社会にはないもの、禅の道だけにあるものを発見する可能性。

◎質疑応答
・以前、若者はどのような流れで禅の道へ入っていくことが多かったのか。
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●「本来の面目」を師家から許されることを、「見性入理」といいます。「心の根源」を手に入れたということです。
見性しますと道号が授与されます。本格の修行の始まりです。
只、「見性入理」というのは、禅の第一歩を悟ったということで、これだけでは見性の喜びを感じることはできても、実生活では十分役に立ちません。まだ自分に納得した人生は送れないということです。そこで「悟後の修行」が必要になります。
悟りの臭みを抜き、実生活の場で、自分の心を鍛えていく。心という鏡を、一つ一つ丁寧に磨いていく。そして、磨かれた自分の心で、ものごとを正しく映し、正しく自由自在に使いこなし、ほんとうの人生を味わっていく。これが「悟後の修行」です。
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参加者 一般の方 2名 会員 妙徳軒臼杵宗應 加藤紫光

年の瀬で参加者4名と少なかったのですが、茶話会では、Wさんと会員2名の母校が同じ中央大学で、懐かしい話で盛り上がりました。

【クリエイト静座会今後の予定】
 1月6日、27日、2月3日、17日
クリエイト静座会は基本第1、第3日曜日ですが、1月は第3日曜日が取れず、第4日曜日となりましたので、ご注意ください。
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 ・道元禅師:時代は遡って、臨済宗と並ぶ、もう一派の曹洞宗を述べる。曹洞宗は洞山良价が起こした事は既に述べたが、臨済宗が“公案禅”(看話禅)の一方、曹洞宗では“黙照禅”と呼ばれ、只管打坐が受け継がれた。坐禅中に「焼香、礼拝、念仏」などの余行をすることなく、ただひたすら黙々と坐禅のみを行うことを説く「非思量」の坐禅、すなわち坐禅中に公案を参究せず、無心に坐るので」ある。坐禅の姿がそのまま仏の姿であると説き、徹底した坐禅修行を必要とすることも特色の一つである。
道元は幼くして父母を失い、14歳で比叡山にて得度し、僧侶となった。18歳の時に比叡山を降りて栄西の高弟である明全を師とし、ともに博多から宗に渡った(1223年)。やがて曹洞宗の如浄を師と仰いで入室参禅し、遂に大悟する。如浄に学ぶこと3年、釈尊正伝の仏法を相承して帰国した。帰国後建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」を著し坐禅の仕方や心得を明らかにして広く人々に禅を勧めた。そのため、天台宗から圧迫を受け、建仁寺から追われて深草に移る。「典座教訓」を著すなどして修行者の生活規律を定めていった。さらに「正法眼蔵」(しょうほうげんぞう)の執筆も行われた。道元のもとに多くの僧侶が集まるようになり、それが比叡山を刺激し天台宗の圧迫を受けた。やがて越前に移った。これは如浄からの教えで「国王大臣に近づくことなかれ。ただ深山幽谷に居して一個半個を説得し吾が宗をして断絶到さしむことなかれ」を守ることでもあった。1246年永平寺に入る。執権・北条時頼の招きを受けて鎌倉に下ったが、弟子が永平寺に残っていることを理由に越前に帰った。その時、残務整理のために残っていた弟子の玄明に対し幕府から寺領寄進の申し出があった。玄明はこれを受けて永平寺に帰山し得意げに報告した。この時道元は玄明の衣をはぎとり、即日山から追放したのである。それのみか玄明が坐っていた僧堂の床を切り取り、その下を深く掘って捨て去ると言う徹底ぶりであった。「正法眼蔵随聞記」の一節に“学道の人は先ず須らく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う。・・・僧は三衣一鉢の他は財宝を持たず、居所を思わず、衣食を貪らざる(むさぼらざる)の間だ、一向に学道すれば分分に皆得益あるなり。その故は貧なるが道に親しきなり。”これが道元日頃の教えであった。それから3年後、後嵯峨天皇から道元に紫衣を賜った。再三辞退したが勅使が3度永平寺に至ったので遂に受けたが、終生これを用いなかった。
辞世の一句“またみんと思いし時の秋だにも今宵の月にねられやはする”
・孤雲懐奘(えじょう):道元のかたわらにあって影の形に添うようにその働きを助けたのは孤雲懐奘である。懐奘は31歳から56歳まで25年間道元禅師の侍者であり、片腕であり、良き相談相手であった。しかも懐奘は道元より2歳年上であった。懐奘は幼い頃に比叡山に登って出家し、学僧として名が高かったが宗から帰国して建仁寺にいた道元の弟子となり、生涯、道元に対して絶対服従であった。懐奘が修行しているとき、懐奘の母親の病気が重くなり臨終が近づいた。大衆は懐奘に同情して母親のもとに行くように勧めたが、行かなかった。以前に道元が亡き師明全和尚が瀕死の状態にあったにも拘わらず、師を後にして旅たったことがあり、その時の道元が「亡き師明全和尚について真実の道心があると考えたのは、或いは父母のため、或いは師匠のために、無益なことをしていたづらに時を過ごし、あらゆる道にすぐれた仏の道をさしおいて時日を過ごしてはならない」と言われたことがあったからである。後年、永平寺の住持となった懐奘は、方丈の側に道元の遺影を置いて昼夜に供養を怠らなかった。
・瑩山紹瑾:曹洞宗の展開に大きく影響を与えたのが瑩山紹瑾である。8歳にて永平寺の第三世・徹通義介に参じ、次いで懐奘について得度した。大きくなる教団に合わせて教団の規定を整える。また、多くの弟子を輩出し、日本各地に曹洞宗の法脈が伝えられることとなる。能登に総持寺の開山となる(1321年)
・臨済宗が将軍家と結びついて発展し、京都を中心とする文化的な側面にも大きな影響を与えていったが、一方、曹洞宗は地方に広がり、在地の武家、豪族、下級武士、一般民衆を中心に広まり、強い影響力を持つようになった。
・一休宗純(1394~1481):大徳寺の一休として天下にその名を知られた一休宗純は、およそ禅僧らしからぬ禅僧であり、かつ禅僧中の禅僧であった。後小松天皇のご落胤であるが権力の真っ向から挑戦し、詩人であり、孤高のひとであり、戦乱暗黒の室町時代にあって、常に民衆の味方であった。一休は堅田の華叟禅師の弟子となって、この人のもとで特別厳しい訓練を受けた。かれはしばしば漁師の舟を借りてその中で坐禅に打ち込んだ。一休27歳の5月20日の夜、漆黒の闇世の中、船の中で坐禅していると闇に一声「カアッ」と鴉が啼いた。その一瞬に大悟した。夜明けとともに華叟の室に入り、自己の心境を語った。華叟は黙って聞いていたが、それで良いとは言わなかった。「それは羅漢の境界だ。作家(サッケ・真に悟った者)の境界ではない」一休の大悟が真実のものかどうか、もう一押し押してみたのである。一休はこう言われてもびくともしない。「何と言われますか。これが羅漢の境界なら羅漢で結構。作家などにならんでよろしい。」と言下に言って退けた。その毅然として動かざる態度を見て、華叟ははじめて「お前は真実の作家である」と評して、印可書を書いて一休に与えたが、一休はそれを投げ捨てて出て行った。印可書というものはみだりに書くものではない。ところが当時の禅界は堕落その極に達していて、資格のない者にまでいい加減な印可書が安売りされていた。一休はそれを恨むこと甚だしかったのだ。その後、師の華叟が死んだ後、一休44歳の時にその印可書を渡され、それを見て師恩の深いことに感泣したが、17年前の彼の決意に変わりなく、涙を呑んでこれを裂き、火中に投じた。印可書の末尾に書かれた一句、「正法もし地に堕ちなば、汝、出世し来たってこれを扶起せよ。汝は我が一子なり」という華叟の慟哭にも似た言葉は彼の心中奥深く突き刺さったであろう。彼は次の如き賛を加えている。
華叟の子孫、禅を知らず
狂雲面前、誰か禅を説く
三十年来、肩上重し
一人荷担す、松源の禅
初祖達磨大師以来、二十五祖松源崇嶽、虚堂智愚、大応国師、大燈国師、華叟宗曇と続いた臨済禅の宗風、その重みはひとり狂雲子宗純の双肩にかかっていると自賛する。初祖達磨より数えて第三十三祖となる。』
参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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