東京・八王子で座禅の体験 人間禅 八王子禅道場 - ブログカテゴリのエントリ
メインメニュー
検索
  • カテゴリ ブログ の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

ブログ - ブログカテゴリのエントリ

【参加者】:8名
  《会員》3名:如法 大愚 龍巌
《一般》5名
《新到者》0名:

【内容】
とても真夏とは思えない涼しさのなかで静坐をしました。
先週摂心(泊まり込みの禅の修行)にご参加頂いた方々、ご苦労様です。去年は意識が朦朧とするほど熱い中で坐禅をしていた記憶がありますが、今年はほとんど曇りの天気で、気温としてはぐっと修行しやすかったように思われます。 今年の夏は、窓を開けて外の世界を感じながら、坐禅をするのに良い年なのかもしれません。自分も蝉に負けてはいられません。

合掌 古江龍巌 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (95)
 昨年の夏の暑い日中、五坪ほどの我が家庭菜園の路地で直径5cmほどの黒い固まりが動いているのを見つけました。
 何かなと思って、近づいてみると、なんと、小さな蟻の大群でした。
よく見ると、仰向けになって足を弱々しく動かしているクマゼミの幼虫が群がる蟻たちに覆われて苦しそうでした。
小さな蟻の大群が蝉の幼虫を襲っていたんです。異様な光景に、ぞっとしました。

 思わず、群がる蟻から蝉の幼虫を救い出しました。
 そして、蟻のいない場所に移して、幼虫の様子を窺っていました。
 だいぶ身体が弱っているようでしたが、しばらくして、なんと! 小生のしゃがんでいる方にゆっくり、ゆっくりと進んでくるではありませんか!

 『お前なあ、俺は木じゃーねーよ。』と声をかけ、近くのお茶の木の下にそっと置いたのですが、それでも、またゆっくり、ゆっくりとこちらに向かってきました。
 なにか不思議な出来事が起こったような気がして感動しました。
 子供の頃、捨て猫に聲をかけていつまでもにゃーにゃーと追いかけて来られ困ったことがありましたがまさに同じ経験です。
今度はお茶の木の枝に掴ませて、『頑張って、蝉になれよ。』と話しかけて、家に入りました。

 どうも昼間の事件が心配になっていたのか、虫の知らせかどうかわかりませんが、夜中の3時過ぎに目が覚めました。
 早速、懐中電灯片手に、蝉の幼虫を昼間掴ませておいたお茶の木の枝のところに駆けつけました。偶然にも、脱皮の真っ最中でした!
 『頑張れ! 頑張れ!うまく脱皮しろ!』と、応援して脱皮を見守り続けました。

  そして、脱皮が完了。
 薄青色の羽がわずかに生えていました。しかし、もう片方の羽が黒ずんでいましたので、少し心配でした。

 しかし、クマゼミになり、青い大空に向かって羽ばたくだろうと思い、うれしくなり、布団に入り安心して眠りにつきました。

 さて、翌朝、食事前に、もう逢うこともないだろうと思いましたが、少し気になって、昨夜の脱皮した場所に様子を見に行きました。
 そこには枝に摑まっている蝉の抜け殻だけがありました。思わずニコっとして、青空を見上げてしまいました。いよいよ、『シャー!シャー!シャー!』と元気に精一杯鳴くことになるんだと思うとうれしくなりました。
 朝食後、また、お茶の木の抜け殻を見に行きました。そして、愕然としてしまいました。
 なんと、木の近くの地面に、脱皮したクマゼミに蟻の大群が寄ってたかっていました。蝉の姿も見えないほど群がっていました・・・。

 彼の人生一体なんだったんだろう。
 土の中でのおよそ5年間、そして、ようやく蝉になったのに、あっという間に人生が終わってしまったのです。なんとも言えないさみしさ、虚しさを感じ家に入りました。
 そして、数時間後、蝉の姿は跡形も無く、大群の蟻たちも一匹もおりません。 まさに土に帰してしまいました。
   私たちもいずれ土に帰すことになります。

 江戸時代、静岡に過ぎたるものが二つあり。富士のお山と白隠禅師、
と歌われて有名な白隠禅師の詩の一節に

『閒(カン)蟻争い曳く 蜻蜒(セイテイ)の翼』とあります。


 お互い、今を大切に、生きたいものですね。

小林   拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (187)
Ⅵ 座     禅
1 歴    史
1) 仏   教
仏教はお釈迦様に始まります。お釈迦様は2千5百年前、インドの王子として生まれました。29才のとき、生老病死(人生の苦悩)を解決するためこの道を求められました。6年間、難行苦行の苦しい修行を行いましたが、この方法で安心を得ることはできませんでした。
とうとう今まで受けていた教えを一切捨てて、菩提樹の下で静かに座禅を組み、そして、大悟されました。これが仏教の始まりです。

2) 禅   宗
その後、仏教は各宗派に分かれました。お釈迦様が亡くなられてから千年後、紀元六世紀、達磨大師がインドから中国に禅宗を伝えられました。ですから禅宗は達磨大師より始まります。達磨大師はお釈迦様より数えて、第二十八世に当られる方です。

3) 日本臨済宗
禅宗も各宗派に分かれましたが、その中の一つ臨済宗は鎌倉時代、南浦紹明禅師(後の大応国師)が中国へ渡り、日本に伝えられました。その後、大燈国師、関山国師、そして白隠禅師へと代々受け継がれ今日に至っております。私たちはこの由緒正しい伝法を引き継いでおります。
2 悟    り
1) お釈迦様の悟り
「一仏成道して法界を観見すれば、山川草木悉皆成仏」
悟りを開いた眼をもってこの世界を見渡せば、存在するあらゆるものは、皆、仏性を具えていた。

  2) 達磨大師の教え
「直指人心 見性成仏」
直に自己の心を指して、本心本性(心の根源)を徹見して仏に成る。
人心(にんしん)とは、楽しい・悲しい・憎い・可愛いい等々の日常起る心の感情のこと。この人心の元(本心本性)をしっかり手に入れるということです。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (120)
クリエイト静座会の開催報告をいたします。

      記

日時:平成29年8月6日(日)午前9時30分~11時30分

場所:八王子クリエイトホール9階和室

静座:3炷香(25分×3)

参加者:一般の方 4名   会員 古江、片野、栗原(以上7名)

コメント:
・今回は輪読は無しで、静座後お茶を飲み懇親の場としました。約30分でしたが人生経験の豊富な方のためか、修験道の修行の話からヨガの話等興味深い話を聞かせて頂きました。
・炎暑の中、クリエイトホールの和室はエアコンが効いて別世界です。また和室としての質も良く、静座環境の素晴らしさを改めて感じております。是非、参加して頂き三昧に浸って頂ければと思います。
合掌  道活 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (145)
 最近の自身の坐禅ぶりは虫の息である。朝起き出でてすぐに坐禅をするが、たまに夢とうつつ(・・・)を彷徨っている時がある。坐禅をしないと(数息観をしないと)、人間、どうなるのか。身の上話を以下、簡単に紹介する。
 私は歩き煙草をしている御仁が嫌いである。吸っている人は良い気持ちであろうが、好きでもない煙を吸う方にとってたまったものではない。受動喫煙となり、健康にもよろしくない。とりわけ綾瀬の歩き煙草率は高く、行き帰り必ず歩き煙草をしている御仁に遭遇する。御茶ノ水はまだましだが、喫煙所や喫茶店で煙草を吸う御仁がわんさかいる。その煙が風に乗って流れてくるのでなかなかいやらしい。
 最近そうした御仁に遭遇すると、「○○!」と心の中で思わず呟いてしまう。あまりにも穢れた言葉のためブログ上には記すまい。最初の頃はハンケチで鼻を覆う等していたが、最近はやや攻撃的な言動である。はて、この行動の変化の原因は何であろう?
 はた、と思いついた。坐禅が虫の息であった。坐禅をしないと、人間、攻撃的な言動になるらしい。まさしく危険初期症状である。
 坐禅をしない、もしくは坐禅をほんの少ししかしていないと、人間とち狂うらしい。よくゲーム上にHPがある。HPがなくなるとゲームオーバーだ。なんと、現実の人間にもHPと坐禅ポイントを兼ね揃えているようだ。ゲームオーバーしたら、入院と精神的な保養が必要である。坐禅ポイントとはいっても、表現の仕方はいろいろできる。要は、息を吸って己自身と向き合う時間が持てているかである。私の場合、坐禅ポイントが一定数に達しないと、攻撃的な言動になるようだ。  よくイライラしている方(更年期の女性はイライラしやすいらしい)ほど、もしかすると坐禅が必要なのかもしれない。攻撃的な言動をしているな、と自身で自覚できると良い。しかし、毎日イライラしている大半の人は「自分がイライラしている」というそのことすら、気付いていないのかもしれないのである。
くわばら、くわばら。
平成二十九年文月
翠珠記ス
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (151)
【参加者】:7名
  《会員》2名:如法 龍巌
《一般》5名

【内容】
八王子は花火大会のため駅周辺は賑わっておりました。参加者はもっと少ないかなと思いましたが、いつもと変わらず参加して下さる方もいらっしゃいました。
会場の都合のため本堂で坐りました。本堂は二階にあるので、風通しが良いです。風はすこし強すぎるくらいでしたが、涼しく坐ることができました。
道場長の如法さんからは前回の貫道老師のご提唱のお話しの補足がありまして、それを聞いて前回の資料についての理解が進みました。

畑にある大根には、評価も値段も何もない。人はそれを引っこ抜いてきて、売り手と買い手があれこれやって、値段や価値や評価をつける。それを商量と言う。坐禅を形だけしっかり坐っても、心で商量を行っているのではだめで、そうした坐禅をしていても意味はない。どう坐禅をすれば良いか、あの本にはこう書いてあって、あの人はこう言っていて、という風に、坐っている間に自分の考えを相手にしているのでは坐禅とは言えない。商量を一切やめた非思量で坐ることができれば、自分の本心に出会える。坐っている間、思いや考え方から離れて、実物に親しくするのが坐禅である。非思量で坐れなければだめである。坐っているときにどのように過ごすかということが重大なのです。  といったことを仰られています。
 坐禅をしながら、坐禅のこと、修行のことについて考えることも、商量であり、雑念であって、切り捨てなければならない。
へぇー面白いなぁと思ってしまいますが、感動している暇があるなら実践をしなくては、です。
少しややこしい話になってしまいましたが、坐禅を初めてやってみようと思っていらっしゃる方々も、どうぞお気軽にお越しくださいませ。

合掌 古江龍巌 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (105)
【参加者】:9名
  《会員》3名:如法 大愚 龍巌
《一般》5名:Wさんは、4月に山梨に出張されてから初めての参加、静坐後は禅東院に宿泊されて、大愚さんと早朝から坐禅をされたそうです。
《新到者》1名

日中の暑さと比べるとずっと涼しいと感じられるなかで坐りました。とても気持ちが良いです。
坐禅後の茶話会では道場長の如法さんが持参された資料を確認しました。曹洞宗の井上貫道老師のご提唱が文字起こしされたものでした。
中でも印象的であったのは、こんな話です。
人は誰かに言われたことがいつまでも残っていて、それを思い返しては腹を立てている。だけれども自分の身体を見てごらんなさい、それはどこにも留まっていません。見たものが目にずっとくっついていますか、聞いたことがずっと耳に残っていますか。
いったいそれらをいつ捨てたのでしょうか、見たもの、聞いたものを捨てようと思って捨ててきましたか。なにもしないのに、皆さんの有り様というのはこんなにうまくできているのです。これが皆さんの本心、本来の面目です。皆さんの有り様はこれから修行してつくるのではない、すでにできているのに、気付いていない、知らないから、頭で色々考えてとんでもない方向に道を求めてゆくのです。お釈迦様は自分の本心の有り様に目覚めたのです。仏教とか禅というものが、自分の身体以外にあると思ったら大間違いなのです。 悟りとは、自分自身の本当の有り様を見届けることです。それを自覚と言っています。何を悟るかといえば、自分自身の内容なのです。お釈迦様も修行をしながら、なにと付き合ったのかと言えば自分と付き合ったのです。

自分の中にある正しさを坐禅の修行によって掴み取っていく、そういった禅宗の考え方がわかりやすく説明されていました。
日中の疲れを癒やしに是非ご一緒に坐禅を致しましょう。
合掌 古江龍巌 
Ⅴ 道力と道眼
1 道力と道眼
前述したことは数息観実習により三昧力を養い、澄み切った心を取り戻すということでした。これらは主に座禅の「道力」(どうりき。真理を行じる力)といわれる効果です。座禅のもう一つの効果は、「道眼」(どうげん。真理を見る正しい眼)を開くということです。
   座禅の本来の目的は、自己とは何か?自己の人生とはいかなるものか?という根本問題に対して、明確な解決を見つけることにあります。その方法となるものが「道眼」です。
数息観が身につけばどなたでも効果はありますが、道力は養えても道眼を開くことはできません。道眼が開かれなければ人生の根本問題を解決することは難しく、禅本来の深い法理を味わうことはできないと思います。座相を身につけある程度数息観に習熟し、更に禅を学びたいと思われた方には、参禅(入門)の道を開いております。

2 参   禅
参禅とは、正脈(正しい法を受け継ぐ)の師家から公案(誰にでも共通する人生上の根本問題)を授かり、工夫三昧によって得た自己の見解(けんげ。解答)を師家に提示して、その浅深邪正の判断を受け自らの境地(心の向上)を高めていく指導方法です。
参禅は独参(どくさん。師家と一対一)形式で行います。人は生まれた境遇、育った環境などにより様々です。独参はその人なりに対応して、その人に沿った人間形成を目指していく方法です。例えば山を登る場合、東から登った方がよいか、西から登った方がよいか、師家はその人に応じた正しい道標を示すのです。ただし、実際に登るのはその人自身です。座禅はあくまでも自力の修行です。独参は人間禅(臨済宗)特有のもので、もっとも重要な行事であり厳粛に行われます。
3 公    案
1)公   案
公案とは、古来より伝わっている人間として解決しなければならない人生上の問題のことです。人間禅では200則定めております。初めの公案は『本来の面目』というもので、揺るぎもない自己を手に入れることにあります。
人は生きている間、嬉しい、悲しい、楽しい、苦しい、等々いろいろな感情が出て振り回されて生きております。まず、その感情の出てくる出所(正体。心の根源)を突きとめ、しっかり自分の手で掴み取り、振り回されない自己を確立するというものです。予期しないいかなる状況に遭遇しても動じない。この解決なくしてほんとうの安心(あんじん)を得ることは、ほとんど難しいと思われます。

2)見性とは
初めの公案が許されることを「見性入理」といいます。見性することは容易ではありませんが、見性したときは今まで味わったことのない大きな喜びとなります。そして、その後の修行によって人生を生きることの喜びを味わい、同時に他を敬う心を深めていくのです。
某哲学者の言葉に、「皮膚の言葉より内臓の言葉を」言葉には2種類あると残されました。皮膚の言葉とは、美しい花を見て「きれいだね」とだれかに説明するような言葉。内臓の言葉とは、腹が痛くて思わず「痛い!」と叫ぶように自分の内側から口を突いて出る言葉とのこと。座禅はむしろ内臓の言葉に近いでしょう。一度味わった痛さは二度と忘れないものです。喜びも同様のことがいえます。

参禅を希望なさりたい方は、私たちの集まりのことをよく理解し納得した上で申し出てください。師家と面談して師家からみて相当であることを認めてから許されることになります。入門後は入会をお考えいただくことも必要です。参禅を希望なさらない方は、引き続き数息観実習に励まれてください。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (102)
クリエイト静座会の開催報告をいたします。

      記

日時:平成29年7月16日(日)午前9時30時~12時

場所:八王子クリエイトホール9階和室

静座:3炷香(25分×3)、輪読

参加者:一般の方 6名  会員 臼杵、片野、栗原(以上9名)

コメント:
・今回の輪読は白田氏の「坐禅と数息観について」を読みました。12ページと長文でしたが、分かりやすく書かれているので参加者も理解を深めたと思います。参加者は6名(会員3名含む)でした。輪読後、呼吸法についてちょっと議論をいたしました。 ・今回は1名の女性の初参加がありました。テーラワーダ会の瞑想の経験があるということで、座り方や数息観についても一定の知識を有している方で、輪読にも参加して頂きました。

合掌  道活 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (58)
 千代田線亀有駅に程近い和菓子屋、「あまからや」さんにて聞書き。ここの和菓子屋さんは生クリーム大福が絶品である。店主は和菓子屋を営む傍ら、武道を老若男女に教えている。
訪ねたのは随分時を遡るが、今でも心に残っている聞書きをご紹介しよう。
 それは「自分勝手」と「自分らしさ」の違いである。
 例えば、先生が生徒に大きく「あ」の字を書いてみよと指示したとする。「自分勝手」な生徒は「あ」ではなく「A」だの「い」だの好き勝手にしっちゃかめっちゃか書く。一方、「自分らしさ」のある生徒はここ一番の「あ」を追求する。その「あ」はやけに右上がりであったり、丸っこかったり…、表現の仕方が自由なのだ。
 これは、とても分かりやすい例えである。思わず膝を打った。人にモノを教える人ならではの観点であった。
 翻って、社会における「自分勝手」と「自分らしさ」の違いは何であろう。私は上記を踏まえて以下のように考える。「自分勝手」とは集団を離れた個である。孤立した個であるので、集団のルールに従わおうとはしない。そして、相手を鑑みない。結果、爪弾きされやすい。一方、「自分らしさ」とは集団の中の個である。集団の和(ルールといっても差し支えない)を守るのと同時に、確固とした信念を持つ。そのため、同じ行動を取ってもやり方は十人十色である。
「自分勝手」と「自分らしさ」の善悪はさておき、さておき。「自分勝手」と「自分らしさ」を混同する者は後を絶たない。「自分らしさ」とはひたすら打ち込んで得るものである。「自分勝手」とは自我流の論理で動くことである。とはいえ、「自分」とは何であろう。分からなくなる方は多く存在する。私達人間はよく何かに没頭するが、「没頭している自分」にどれだけ多くの人が気付いているだろうか。大抵「自分」が分からないという人は外側から自身を見つめる目を欠いている場合が多い。禅は外側から自分を見る目を与えてくれる。たとえ禅という形を取らなくても、瞑想でも他にも様々な方法があるだろう。後は好みの問題である。「自分」を知りたいのであれば、どんな事柄に没頭しやすいのか、自分を外側から眺める(自身を客観化する)ことをおススメする。初めて禅の世界に足を踏み入れた時、「禅とは自分探しの旅である!」と喝破(?)したことがある。(禅は進めば進む程、奥深い世界が存在する。それを知ったのはまた別の話である)あながち的を外した表現ではないが、全てを表すのにまだまだ言い足りない。自分の知っている「自分」は氷山の一角。深堀するかしないかは諸君にお任せ、お任せ。  平成二十九年文月
 翠珠 記ス
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (342)
Copyright © 人間禅西東京支部 2007-2013