東京・八王子で座禅の体験 人間禅 八王子禅道場 - ブログカテゴリのエントリ
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・山本玄峰(1866~1961);白隠禅師の再来と言われた山本玄峰老師は慶應2年、紀州湯の峰に生まれ、同郷の岡本家に養子に貰われる。20歳にて眼病を病み、医師より失明の宣告を受ける。
自殺の覚悟で日光華厳滝へ行って果たせず、さまよい越後で行き倒れる。幸い助けられて郷里へ送り返されるが、その後も四国の霊場を巡拝する。各地のお寺で25年間修行し、50歳で漸く成就して白隠ゆかりの三島竜沢寺に住する。
玄峰老師の逸話で、転向前のテロリストの共産党員として知られた田中清玄氏が竜沢寺へ転げ混んできた時のことである。一日老師は田中氏のところへ来て問われる「田中、おまえは何のために修行しておる?」「世のため、人のために修行しています」それを聞いて老師は「馬鹿者!」と雷が落ちた。「わしはわしのために修行しておる。世のため人のために修行などせぬ」
老師は口の先だけで世のため、人のためなどと公言する輩の偽善を許さなかった。先ず己を整えようとせぬ者が、何で世のために人のために役に立とう。人類の平和を口にしつつ投石し暴行する者のどこに真実があろうかと。また、昭和20年8月の終戦直前、鈴木貫太郎首相に宛た手紙に、「貴下の本当のご奉公は、これからであるから先ず健康にご注意くだされ、どうか忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、国家の再建に尽くして頂きたい」と書き、鈴木首相の苦衷を察して激励されたものであった。この「忍び難きを忍び行じ難きを行ず」と言う言葉は玄峰老師の創作ではない。初祖達磨大師が弟子を訓戒されたことばの中にある。「諸仏無上の妙道、曠劫に精勤して、行じ難きを行じ、忍び難きを忍ぶ、豈小徳小智、軽心慢心を以て真乗をねがわんや」とあるのによったのである。
山本玄峰、禅者の言葉「垢で垢を落とすのじゃ。公案とか何とかいうが、みな垢の一つのようなものじゃけれだも、その垢をもっていかんとほかの垢が落ちん。石鹸がソーダがないとほんとうに垢じんだものが白くならないのと同じことじゃ。からだの垢は自然にいつついたらやらわからん。心の垢もそうじゃ。現世のことばかり、生まれてきてからの目の先のことばかり思うけれども、宿因ということじゃぜ。」

・鈴木大拙(1870~1966);明治3年に石川県金沢市に生まれる。在家居士であるが、鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅し、北米に最初の禅ブームを起こした。21歳で上京し、東京帝国大学哲学科選科で学ぶかたわら、鎌倉円覚寺で参禅する。最初は今北洪川禅師に参禅したが、25年1月に洪川が他界したため、法嗣釈宗演に参禅した。明治26年、釈宗演が世界万国宗教者会議にて講演する原稿の英訳を担当したのが大拙であった。会議の翌年、宗演より「大拙」の号を賜った。宗演から授かった公案は「趙州無字」でしたが、大拙は「ともかく無字を5年ほど工夫して、アメリカに発つ前の年の臘八の摂心で、一応“見性”したわけだが・・・」また、「25年の正月、洪川老師が亡くなられて、その年の秋に、宗演老師が管長に出られた。・・・26年の春、帰源院に寄宿したのかな。帰源には宗活和尚がいた。のちの両忘庵だ。・・・帰源院では、わしら夏目さんといっしょになったわけだ。」
選科終了後に渡米し、11年間にわたり仏典や漢籍の英訳・編集に携わる。帰国して学習院大学で英語教師を務めながら、昭和13年に『禅と日本文化』を出版した。この書は後に大幅な改訂増補がなされ、『Zen and Japanese Culture』と改名して再刊され、今でも、禅を学ぶための基本書となっている。
アメリカから初めて帰朝されたとき、東京大学の印度哲学研究室に仏教の専門学者ばかりを集めて話をされたことがある。その時大拙は机の上の花瓶を指差して「これは花瓶である。しかし、これを花瓶だと見るときに、花瓶と私の間に、花瓶とはこういうものだという先入観がはいりこんでしまっている。それではこの花瓶とわたしとがほんとうに一つになっているとは言えぬ。それでは現実(リアリティ)がない。だから、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである」

・両忘庵釈宗活(1871~1954);宗活老師は宗演禅師の法を継ぎ、主として在家の者の教化にその生涯を捧げられた禅界の大宗匠である。明治3年東京麹町の開業医の四男として生まれた。
英才教育を受けるが、11歳のときに母が亡くなる。臨終に際して次のように遺言された。「今言うことは母の遺言である。肝に銘じて聴け。これから先幾多の辛酸を嘗め、浮世の荒波に揉まれることであろうが、第一に心掛けるべき事は、正しき教えに入って、心を玉のごとく磨いて行くことである。世間一般には富貴栄達・立身出世を第一に望むのであるが、この母はそれを望まぬ。この志を貫くが為には、男子大丈夫の心を突っ立てて独立独歩、他人に依頼心を起こしてはならぬ。」老師はこの最後の訓戒が、子供心にも五臓六腑に染み込んで、終生富貴栄達を望まざる意志と、立身出世を第一義とせざる念慮と、独立独歩の3条件を、自身の根底に植えつけられたと述懐されている。20歳の時に今北洪川禅師に入門、翌年見性して石佛居士の道号を授与された。その時「長い間の煩悩も一時に消え失せ、青天白日の境涯と、真に独立独歩の安心立命を得、亡き母の真面目に会うことが出来た。今まで此の如き尊い修行があることを夢だにも知らなかった」と述べている。今北洪川禅師が帰寂された後は、円覚寺管長に就任された宗演禅師につき、修行に精進された。宗演禅師の傍らに侍すること数年の後、師命により帰源院の管理を命ぜられ、摂心に入山する居士・禅子の面倒を見る。因みにこの頃、夏目漱石が帰源院を尋ねて青年僧宗活の指導を受け、その体験をもとに小説「門」が書かれたという。
明治31年、29歳にて東洋の旅に出る。2年後、帰国して宗演老師の勧めで在家禅の『両忘会』を再興、両忘庵の庵号を授与される。さらに明治39年渡米、「北米両忘会」を創設、老師はその後も日本全国を休む間もなく巡錫し、各地に支部を設立、各宗派に属しない居士専門道場として永久に存続させるべく大正14年に「財団法人・両忘協会」を発足させた。新進気鋭の老師は、日本臨済禅の正脈を禅僧に非らざる在家の修行者に荷担させ、禅の歴史上初めて、新たな僧伽を確立したのである。なおその時、九州鎮西支部及び岡山中国支部を立田英山居士に支部長を任命している。「両忘協会」は昭和21年、宗教法人「両忘禅協会」とし、さらに翌年22年12月「両忘禅協会」の閉鎖を宣言された。



参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)、擇木道場創建100周年記念小冊子
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小生が入門を許された方は、人間禅創設者 耕雲庵英山老大師です。昭和42年4月、大学3年のときです。老大師74才、人間禅創立18年後、創立期から成長期に向かう時期でした。数年後、妙峰庵孤唱老師に参じました。老大師に参じた期間は2年間位になります。その中から2題取り上げます。

1、「公私の区別」
 小生は大学2年の後半より、松戸五葉塾で妙峰庵老師(当時老居士)にご指導頂きました。塾生時代のことです。当時老大師は数か所地方へご巡錫されておられました。 その送迎を塾生が主に担当しておりました。
ある時、小生ともう一人の塾生がお迎えをする番になりました。東京駅より市川駅に向かう車中のことです。車掌が検札に廻ってきました。小生は老大師より切符を預かり車掌に渡したところ、わずかな金額(10円?)不足でした。小生はわずかな金額のため、老大師に催促するのをためらいました。自分で払おうとしたところ、老大師がスッ-と立ち上がり、「君が払うのはおかしい。」と、ご自分の小銭入れから10円玉を取り出し、車掌に渡されました。老大師が車掌とのいきさつを小耳にはさんでいたようです。それだけのことですが、小生にとって忘れられない事となりました。
入塾のとき、妙峰庵老師に連れられ、老大師のお住まいにご挨拶に伺いました。普段勇ましいご指導をなさる老師が、老大師の前では平身低頭でした。道場の状況を知らなかった小生は、緊張した雰囲気の中で老大師はすごい方なのだなと、強く印象づけられました。
  その老大師が小さな小銭入れをのぞき込み、10円玉を探しておられる姿に、何か不思議な感じを持ちました。今思い出しますと、それは自然なお姿でした。当時、数か所尋ね求めていた小生は、この道場はほんものかも知れないと思いました。
そのときの事を自分なりに、「公私の区別」をつけると受け止めております。それからは、反省すべきことは多々ありますが、いましめとして社会生活を送ってまいりました。今は「公の責任」と変えて、送ってまいりたいと思っております。
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・明治維新(1868)の後、仏教界は神仏分離令をはじめとする政府の宗教政策で大きく転換を迫られ、廃仏毀釈で寺院、仏像の破壊や、僧侶の還俗などを見た。また明治政府は教導職の寺院住持を統括するために各宗に管長を置き、一宗一管長制とした。この一宗一管長制にて曹洞宗、臨済宗、黄蘗宗は禅宗一宗となったが、やがて分離独立し、明治9年には禅宗3派となる。その後臨済宗では南禅寺、天龍寺、妙心寺など各派に分離し、現在では臨済宗14派の成立をみる。
 この期の臨済宗には滴水宜牧、荻野独園、洪川宗温(今北洪川)洪嶽宗演(釈宗演)など明治の禅匠によって支えられ現代に至る基礎が築かれた。

  ・蒼龍窟今北洪川(1816~1892);9歳で四書五経を了じ、儒学を学び19歳にて私塾を開くが出家の思い強く、妻子を預け相国寺にて修行、出家する。岡山・曹源寺の儀山和尚に参禅、38歳にて嗣法。『禅海一瀾』を著す。円覚寺第201代住職、明治15年初代管長に就任。両忘会や円覚寺正傳庵に擇木園の居士林を創設、在家の人たちへの教育に積極的に取り組む。山岡鉄舟、高橋泥舟、中江兆民、西田幾多郎、鈴木大拙等が参禅をした。当時は出家するしか伝法本格の禅に接する事ができなかったが、在家の人が禅に参じることができるように心身を尽くされた。
 
・山岡鉄舟(1836~1888):鉄舟は本所大川端にて旗本小野家の四男として誕生、名前は鉄太郎。小野家は徳川家康以来の直参ですが、17歳にて両親に先立たれ5人の弟たちを育て苦難の道を歩む。20歳の時に槍の名人山岡静山の門に入る。これが縁で静山の弟、高橋泥舟のすすめで山岡家を継ぎ、泥舟の妹と結婚する。少年時代から剣術に精励し、浅利義明について一刀流を学び師事する事数十年に及び明治13年45歳の時に一刀流夢想剣の極意を得、さらに“剣禅一如”の無刀流を創始する。禅門についても幼少から親しみ、幕末から明治に掛けてまれにみる剣人であり、禅人であった。20際の頃、武蔵長徳寺の願翁禅師について無字の公案を授かり12年間辛苦し、一日箱根入湯の際に悟り得た。その後、荻野独園、今北洪川等の禅師につき、最後に由利滴水禅師につき「両刃鋒を交えて避くることを須いず」の一句によって大悟徹底した。鉄舟を指導した天竜寺の由利滴水禅師は、その指導ぶりの峻烈さで鳴っていたひとであり、その滴水和尚が「わしが鉄舟に接した時は一回一回が命懸けであった。ためにわしも大いに力を得た」と述懐された。
鉄舟の生活は質素をきわめていて、邸内には鼠が跳梁していたが鉄舟が坐禅を始めると一匹もいなくなった。夫人が不思議に思って鉄舟にこの由を告げると「わしの坐禅は鼠の案山子ぐらいが相場か」と大笑いした、と言う。 鉄舟はあるとき講談の名人三遊亭円朝を招いて桃太郎を一席語ってくれと頼んだ。そこで円朝は舌を振るって一席これを演じたが、鉄舟はにべもなく「おまえは舌で語るから桃太郎が死んでしまっている」と言った。以来、円朝は懊々として楽しまない。ついに自分から鉄舟のもとを訪ね、「舌をなくして語るには禅をやるしかない。禅をやるには智慧も学問もいらぬ、ただ根気がありさえすればよいと言う。私は愚鈍ながら、芸の根気があります。どうか禅をやらして下さい」と頼んだ。そこで鉄舟が「趙州無字」の公案を授ける。それから2年間円朝は辛苦して無字の公案に取り組み、これで良いところへ落ち着いたので、鉄舟のところへ駆けつけ“桃太郎”を演じた。
みごとな桃太郎であったので、鉄舟は「うん、今日の桃太郎は生きているぞ」と許したと言う。円朝は滴水老師から無舌居士の号を与えられる。

山岡鉄舟居士辞世 『腹張りて、苦しき中に 明烏』

・楞伽(リョウガ)窟釈宗演(1859~1919);
12歳で京都妙心寺にて得度し、18歳で鎌倉・円覚寺の今北洪川に参じて26歳(明治15年)で嗣法。観音菩薩の再来と洪川禅師にこの上なく大事にされた。禅道修行の傍ら慶應義塾にて福沢諭吉に師事し英語、洋学を学ぶ。山岡鉄舟の支援を得て、明治20年から3年、セイロンに学ぶ。インド、中国等アジア各国に留学、帰国後明治25年(1892年)33歳で円覚寺派管長に就任。この年、入沢石佛居士(後の宗活)が入門。1893年、シカゴにて開催された万国宗教大会に、日本仏教代表団の団長として参加。その後各国を巡り、帰国後初めてアメリカ人の参禅を聞く。1906年再渡米、通訳として鈴木大拙を伴いアメリカ人に禅指導を行った。政・財界、夏目漱石等知識人への講義・指導を通じて多くの信奉者を持ち、弟子の数3千と言われた。


参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)、擇木道場創建100周年記念小冊子
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●若い頃読んだ本の中に、「人生は棺桶に片足を入れたとき、“よかった”と思えれば、その人の人生は成功した人生である。」と述べられておりました。そのときは、その通りだと思いました。そういう人生を送ろうと思いました。
只、禅の修行をしてきて、今は考えが変わりました。それでは手遅れ。実際に生きている「只今(ただいま)」という瞬間。只今のその一瞬のときに“これでよい!”と思える人生。それがほんとうの人生だと思うようになりました。
禅は「行の修行」、それも「一瞬の行の修行」。そういう心構えで今後も禅の修行に励んで参りたいと思います。
  ≪正受老人≫ (白隠禅師の師)
老人曰く、『一大事(いちだいじ)と申すは 今日只今(ただいま)の心(こころ)也、的面(てきめん)の今を失(うしな)ふに 心づかず。』
 
●小生の好きな言葉
≪耕雲庵英山老大師≫ (人間禅創始者)
(「凡夫禅」第2号 昭和21年4月)
『禅とは心なり。只 それだけのことなり。それだけのことに禅者は一生をかけて努力す。愚者(ぐしゃ)は之を嗤(わら)はん。智者(ちしゃ)は之を知る。』
                     (完)
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2019年の始まりから「白隠 禅画の教え」(著=芳澤 勝弘)の日めくりカレンダーめくりが日々の楽しみになっている。(以下、随所の引用はここより)毎日フムフムだ。白隠とは江戸中期の禅僧で、臨済宗の中興の祖。「駿河には過ぎたるものが二つある、富士のお山に原の白隠」と当時から言われていたそうな。いわゆる「有名人」である。人間禅は臨済宗の流れを汲んでいるため、「白隠坐禅和讃」がどことなくなじみ深い。しかし、禅画に込められた意図を解するのは並大抵ではない。白隠さんは相手によって禅の教えを変えて説く。白富士に禅の神髄を込めて「なるほど!」と思う禅画もある。また、鬼が味噌こぎで擂られてしまうものに、なぜ擂られねばならんのだ!とまだ「?」な禅画もある。布袋さんが日々現れては消え、その笑顔が秘めるゆるさ加減にほっこりしつつも、深淵な意味に吃驚することも。何かは問わず、モノを突っ込んだ袋を担いでいるのが布袋さん。「無一物中無尽蔵」。彼の人物の登場は、無から一切が生成するという教えを説いていた。
繁忙期と相俟って、休日も仕事にストーカーされている!、とそこはかとなく感じる今日この頃。あれもこれもしたいが、時間がそんな余裕を許してくれない。あれもこれもできる時間をひねり出すのか現在の私の命題である。どうしたら良いのだろう。あれもこれもの執着を捨てれば良いのか?日々の工夫で時間をひねり出せるのか?
そんな時、布袋さんの示す意味をじっくり心に念じてみるのであった。
平成31年如月 翠珠記ス 
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・近世初期の臨済宗には、公案禅を標榜し修禅専一とした宗風に弛みを見せ、禅問答も形骸化している実態があった。それを知る一つが、問答の答案を秘密裏に伝える口訣伝授の密参禅である。そうした臨済禅を直視し、禅僧に明眼の師はない、それらしく振舞う邪師や外道の師ばかりで、俗士にも劣る禅僧が世に溢れ、徹底究明の悟道を体得した禅者いないなどと、その危機的状態を直視し、悟道のための真剣な修禅による祖師禅の復興を目指した正法の復興に意欲的な禅僧が、愚堂東寔(とうしょく)等の妙心寺派の禅僧であった。近世中期に至り、さらに臨済宗復活の契機を起こしたのが、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠慧鶴であった。白隠は見性開悟を第一義とする実践的立場において「隻手音声」の公案を開発し、公案の体系化図るなどして白隠禅を大成した。
・「駿河の国に過ぎたるものが二つあり。富士のお山に原の白隠。」
・白隠は11歳の年に、昌源経寺と言う寺で窪金の日厳上人が『摩訶止観』を講義するのを聞いた。摩訶止観の中に地獄の相を説く部分を講じたのであり、焦熱紅蓮の地獄の有様を聞いた白隠は、身の毛もよだつ恐怖感に駆られた。一日、母と入浴しているとき、女中が薪をどんどん焚き、湯はたぎり、炎が燃え上がると、幼い白隠は地獄の責め苦を思い出して号泣する。母はこの感性の烈しい少年にこう教えた「西念寺においでる天満天神に一心にお祈りすれば、地獄の苦しみから救って下さる」。この日から白隠は一心に菅公を念ずる人となる。12歳の年に祭りの芝居で日親上人が焼けただれた鍋を頭に冠らされたが、法華経信心の力で火傷を負わなかった霊験談を見て感動、数日後、焼火箸を股に押し付けひどい火傷をした。白隠は失意し、恐怖心を抱き、やはり出家せねば救われぬと考えて、父母に出家せんことを乞うたが許されなかった。これらの事は、白隠少年の感じやすい魂に消しがたい印象を刻み込んだと思われる。白隠も墨跡に天神様を描いたものや、“南無地獄大菩薩”の文字を数多く見るのは、少年時代の強烈な印象や体験がその尾を曳いているとみるべきである。
・白隠さんに関するもう一つ。白隠さんは若い修行時代には激しい禅の修行のために胸を患い、今で言うひどい神経衰弱になり明日をも知れぬ身となった。その時縁あって、京都山中に白幽仙人を知り、「内観の法」を授かり元気になったとあり、また、『独り按摩』を考案された。弟子や一般信者の健康を願って創られたと思われる。
『独り按摩』の伝 抜粋:①手の平を摺る ②指を組む ③揉み手・・・⑨鼻の左右を摺る ⑩額を左右に摺る・・・㉒指を組み、鼻の通りへ上げ膝を打つ ㉓左右のこぶしを以て臍裏背肩を打つ
以上初伝。<『禅』誌11号 独りあんま(前編)矢野豊彦>
・84歳を迎え、身体の不調を感じるようになり、暁天に高いいびきをかきながら眠っていて、にわかに「大吽(うん)一声」して、右を脇にして寂された。1768年行年84歳。

・大愚良寛(1758~1831):曹洞宗の禅僧。良寛はひとの家を訪問しても、時には台所のかまどの火を焚いたり、仏間で坐禅したりするばかりで、別に経文の解釈もせず善いことをしなさいと言ったりもせず、道義について言うわけでもでもない、それでいて、良寛がいるだけで家の中が和やかになり、帰った後も数日は家の者がニコニコしていたと言う。修行時代の良寛の同輩に仙桂和尚という人がいる。いつも畑仕事ばかりしている人で、若い良寛にはこの人の値打ちが分からなかった。しかし後年、越後に帰った良寛は、この仙桂和尚そっくりの生き方をする。修行に一途になっていると、自分の修行だけがよく見えて、反対のものはみなつまらなく見える。そういう人間を夜郎自大という。仙桂和尚のような、禅僧だか、百姓だかわけのわからぬ生き方をしている人間を修行一途の良寛が無視しようとし、軽蔑しようとしたが、そうしきれぬものが残ったのである。
良寛は世間の規範にとらわれない脱俗・超俗の人柄が伝えられています。それが我々に懐かしさを抱かせ、ぎすぎすした現代の中で一服の清涼剤となっているのだと思う。このような人柄が伝えられる一方、良寛は非常に厳しい修行をされた本格的な禅僧でもあった。18歳で出家、22歳で国仙和尚について禅の修行をした。修業中は、托鉢に行っても誰の顔をも覚えてなかったと伝えられている。動中の禅と言うのでしょうか。どんな場合も一心に心を統一していた。その後行脚してさらに故郷の越後に帰って、子供らと遊んだり、農夫と畦道で酒を飲んだりする一方で「僧侶である自分が、どうして虚しく時間を過ごすことができようか」と厳しい反省を行っている。

「無心」 花は無心にして蝶を招く 蝶は無心にして花を尋ぬ
     花開く時蝶来たり 蝶来る時花開く
     吾も亦人を知らず 人もまた吾を知らず
     知らずとも帝則に従う


参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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 テニスの全豪オープンで優勝した大坂なおみ選手。恵まれた体格。ずば抜けた身体能力。そして、大坂選手がよく口にする言葉「インナーピース」。これが、大坂選手の精神面の成長を支える鍵のようだ。「内側の平和」「内なる平穏」心穏やかな時にいいプレーができるという。「平常心」と解説する人もいるし、「台風の目」と解説する人もいる。「台風の目は静かで穏やかだが、周りには大きなエネルギーが渦巻いている。嵐の中でも自分は安定した場所にいて、必要なことだけが見えている。」
 スポーツは、身体能力を極めることが第一だが、常にメンタルの強さが求められ、それがプレーに即現れる。メンタルの強い人が一流と呼ばれる。
 この「インナーピース」という言葉を聞いて、禅の修行をしている私としては、インナーピースが基本だな、と思った。座禅はボーっと無念無想で息をしているのではない。精神が活き活きと鍛えられ、どんな荒れ狂う嵐の中でも落ち着いて行動できる心を養える。禅には「忙中に閑あり」「閑中に忙あり」という言葉がある。「忙しい時でも、落ち着いて安定した閑とも言える心で物事に対処する」「のんびりしているように見える時でも、心は活き活きと活動している」という意味だ。
 大坂選手は、女子テニス界で世界第一位の頂点を極めた。その基本の心「インナーピース」は奥が深い。「心は五歳児になった」と笑わせる21歳の女王。私は「内側の平和」「心の平穏」「冷静・落ち着き」等を求めて、座禅を続けたいと思う。大坂選手のこれからの活躍と心の成長を見つめながら。
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●在家禅とは、会社員、自営、主婦、学生等で禅の修行に励むことです。禅の修行は自分だけ悟ればそれでよい、自分がよければ後はどうでも良い、というものではありません。それはほんとうの悟りではありません。
実際の場で仲間とともに、自分の心を磨いていく。自分の置かれた環境の中で、できる範囲で、自利利他行を果たすことが大切です。禅はあくまでも、「実践の行」です。これが「在家禅者」のあるべき姿です。

●といっても、難しいことを言っているのではありません。
会社員は会社員らしく。主婦は主婦らしく。商売人は商売人らしく。学生は学生らしく。「……らしく」が人間形成の極といわれています。
生活+(プラス)禅ではなく、生活=(イコール)禅。生活の他に禅の修行があるのではなく、生活の中にある禅。そうでないと修行は続きません。人生を味わうこともできません。苦痛に思うだけです。
その点で、人間禅の特徴である「在家禅」は、最も禅の修行に適していると思います。
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・足利政権下では大徳寺が五山から外され、また妙心寺が足利義満の弾圧で没収されたが日峰宗舜が中興し、応仁の乱で焼けた後も雪江宗深らの手で再建される。
・古渓宗陳(1532~97):正親町(おおぎまち)天皇の勅を受けて大徳寺を継ぐ。利休とは肝胆相照らす仲。多くの茶人を知る。古渓は秀吉の信も厚かったが、秀吉の勘気に触れて九州に流される。利休らがその赦免に奔走して帰京する。利休が、大徳寺山門安置の木像に起因して、秀吉の換気に触れ自刃。大徳寺長老2,3人も磔と大徳寺破却の処罰を受ける。磔は秀吉の母大政所の助力で中止となったが、破却は徳川家康などの使者が遣わされた。古渓は使者を前にして懐の刀を出し「貧道先ず死あるのみ」として抗議する。報告を聞いた秀吉は破却命令を撤回したと言う。
・沢庵宗彭:1628年紫衣事件(大徳寺諸法度を避難して幕府に抗議)にて流罪となったが、赦免される。1639年家光が江戸品川に開創した東海寺の開山となる。
・隠元隆琦:1654年、福建省黄蘗山萬福寺の隠元(63歳)を招請して、長崎興福寺に開堂して黄蘗宗を開く。やがて京都宇治の地に黄蘗山萬福寺の開山となる。隠元は当初中国人のために3年間だけ滞在するつもりで来たが、隠元が臨済宗の僧であったため、隠元の来日を知った多くの臨済宗、曹洞宗の僧達が多数馳せ参じた。当時の日本の禅界は300年間沈黙していたと言われ、そのため多くの僧が隠元の下に集まったと思われる。黄蘗の宗風は当時中国で行われていた禅淨蜜融合の仏教に沿ったものであった。隠元が渡来後はじめて興福寺で行った結制には多くの日本僧が参加していたが、妙心寺派の首座が黄檗僧に語った言葉は以下のとおりである。「其の家風を見るに、問道説禅、禅の如きものあり、忽ち高く弥陀仏を唱う。浄土宗の如きもの有り、真言宗の如きものあり」このように黄檗宗は西方浄土的であり、また密教的色彩をも有していた。日本の禅僧たちはこれに新鮮さを感じ取った人もあり、一方嫌悪感を抱く人もあった。いずれにしろ当時の日本の禅界に強い印象を与えた。
隠元の来朝は明代文化東漸の一環である。明より清への中国社会の変革に際して、東漸の動きは一段と強まる。清朝は塞外の女真族が建てた国である。異民族の支配を好まぬ有識者は、清朝の建国が決定的となるや、海外に活路を求め始める。黄檗の開創に象徴される中国近世文化の東漸は仏教の域に留まらず、広く精神文化の再編をはじめ、国学、蘭学、漢方、社会教育、福祉の普及より、さらに文人趣味を背景として煎茶や、普茶料理などの食生活の領域にも大きな変化をもたらした。 “インゲン豆”は隠元が日本にもたらしたとある。この他にも“孟宗竹”や“西瓜”“寒天”等をもたらしたとの説もある。また、読経の時に使う“木魚”。以前は魚の形のまま中をくりぬいて合図のために使用していたが、黄蘗派がもたらしたものは魚の模様のまま形を丸くして中をくりぬき読経のために使用するようになった。
隠元が渡来した後、黄檗派は急速に発展し、百年後には寺院千カ寺を超え、仏教界はじめとして多くの分野で影響を与えた。
・至道無難→道鏡慧端(正受老人)→白隠慧鶴:隠元の来朝で黄蘗派が勢いを増し、妙心寺でも黄蘗僧になったりと隠元に関心をしめして宗風の刷新を図る動きがあった。しかしそれはそれはかえって妙心寺に開創以来の伝統を堅持すべきことを再認識させる機会となった。愚堂東寔(とうしょく)は1659年妙心寺開山300年法要で導師を務め、今に臨済禅の法灯を伝える貴重な存在が妙心寺であることと、その重要性を説き、自力再興を掲げた。愚堂国師からいろいろと教えを受けたのが、至道無難禅師である。47歳のときに愚堂国師から『信心銘』の講義を聞き、その冒頭の「至道無難、唯嫌揀択」の一句に絶大な感銘を受け大悟したと言う。そのとき国師から「至道無難」の名を授けられた。もともと関ヶ原の庄屋であった無難は、たまたま立ち寄った愚堂国師に従って江戸までついて行き出家した。
「念のふかきは畜生、念のうすきは人、念のなきは仏」
他人についても自分についても無関心な、いい加減な人間。こんないい加減な人間が、そのいい加減さを反省することなく、ただ師匠の言いなりになったり、なだ念仏をとなえたりしたって、本当のところへいけるはずがない、と無難は考えた。だから人間は、いい加減な生き方を清算して徹底的に努力するところがなければならぬ。52歳で発心して坐禅に励んだ無難の眼から見ると、若年、壮年でぐずぐずしている人間の生き方が歯痒くてならなかったのであろう。
・正受老人:この無難から親しく印可を受け、正脈を伝えた弟子が、正受道鏡慧端禅師ひとりであった。19歳の時、江戸へ出て至道無難禅師に師事。20歳にして、その奥義に達し、その後信州飯山に正受庵を立てて隠棲します。『正受老人の書かれた「一日暮らし」の中に、有名な<一大事と申すは今日只今の心なり。>という句があります。一日一日とつとむれば百年、千年もつとめやすし。一生と思うからにたいそうである。一生とは永いと思へど後の事やら翌日の事やら、死を限りと思えば一生にはだまされやすしと。「一大事と申すは今日只今の心也」それをおろそかにして、翌日あることなし。総ての人に遠きことを思いて謀ることあれども、的面の今を失うに心づかず。』<『禅』誌46号(2014)鸞膠庵老師「禅者の死」より>
この正受老人によって仕上げられたのが、五百年不出の偉人と言われた白隠禅師。

参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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参加者 一般の方 2名
    会員 加藤紫光
今年最初の静座会。八王子駅から近く、冷暖房完備で居心地の良い環境で、座禅を求めていらっしゃる方達とご一緒するのは、一人で坐るより嬉しいものだ。
今日は部分日食あり、とWさんがしっかり目を保護するフィルターを持参された。曇り空で太陽は見えるか、とあやぶまれたが、静座の合間の5分休憩の間、しっかりと部分日食を垣間見ることができて、皆でウキウキまわし見た。
座禅の時は座禅、部分日食を見る時は見ることに集中した皆さん、もう、座禅もベテランだ。
茶話会どころではない、今日は部分日食DAYだ、と皆さんイソイソと帰られてしまったが、座禅の合間の天体ショーに皆興じ、座禅会が盛り上がった。

クリエイト静座会の日程ですが、1月は第3日曜が取れなかったので第4日曜の27日です。
2月は3日と17日、3月は3日と17日です。是非いらして下さい。
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