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 東山殿で行われた書院式殿中の茶の湯に比較すると、全く対象的な町人の茶の湯を工夫したのが珠光(ジユコウ)です。
珠光の考案した下京の茶とは客と茶を点てる亭主が、一つの座敷に集(ツド)うことを建前としています。亭主自ら客の前で道具を扱い、茶を点てゝすゝめる、新しい茶の湯の考え方です。村田珠光は元、僧でしたが、茶事に熱中して寺役を怠ったため寺から追放され諸国を流浪した末、京都に来て三条町に居庵を構え、町人に茶の湯を教え、能阿弥に入門、立花と唐物の目利きを学んだといいます。次いで大徳寺の真珠庵に入り一休禅師について禅を学びます。その時、博多の崇福(スウフク)寺(ジ)から持ち帰りそのまゝにしてあった台子を大徳寺に取り寄せた一休禅師に、これで茶を点てる様式を研究するように言われ、台子を使った点前を考案したと言われています。珠光は茶禅一味の妙境を体得し、一休禅師から印可の証(アカシ)として、宋代の名僧圜悟(エンゴ)禅師の墨蹟を授かります。珠光はこの墨蹟を表装して自庵の床に掛け、ひたすら茶の湯を楽しみ、仏法も茶の湯の中にありと悟ったそうです。茶禅一味の境地です。
 立花と唐物の目利きの方法を教えた能阿弥も、珠光に茶の湯を学び、二十一ヶ条の秘伝を受けたそうです。そのことを義政に言上したので、義政も珠光に茶の湯を学ぶことになりました。能阿弥は義政に「茶の湯に身を投げ打ち、又孔子の道をも学んだ者」と言上しました。珠光の茶道には仏法のほか儒教をも加味していたようです。珠光は八十才の高齢で亡くなりました。
 珠光は茶の道を立てるために、茶席から博奕(バクエキ)と酒盛を追放しました。風姿(フウシ)花伝(カデン)書(シヨ)にもある、「好色、博奕、大酒、三(サン)重(ジユウ)戒(カイ)これ古人の掟なり」を応用して茶会の秩序を正しました。弟子達はこの戒律を守り、茶の道に精進し、その風尚が京都、奈良、堺の町々に広まったため、闘茶の遊びは急激に廃れたようです。
この時代は唐物万能でした。茶の道具として唐からきたものはなく、有名な作物(ツクモ)茄子も元来、香油の壺のようなもので、形が茄子に似ているので作物茄子と名を付けて茶入れに見立てたのは珠光です。九十九茄子とも言います。
 人の見過ごすような物の中に茶の道具として使える美を見出して使いこなす目利きも大切です。珠光はこの様な信念と見識の元に、あらゆる作意(サクイ)を凝らして茶室や茶道具を改造し、新鮮な創造を試みた為、茶生活の様相が此処に一変しました。書院の広間にかわり草庵の四畳半を真の座敷とし、これをスキヤ数寄屋と称しました。書院飾りに対して数寄屋飾りの方式を案出し、書院で用いた黒塗りの真の台子に対して白木の竹軸(タケジク)の竹の台子を考案し、床の間の掛け物は墨蹟を第一とし、唐物の茶器はたとえ下手(ゲテ)物(モノ)であっても人形手(デ)の青磁と抛(ナゲ)頭巾(ズキン)肩衝(カタツキ)など、侘びた風体(フウテイ)に富む侘び道具として愛好されました。
この時代、武人も町人も嗜みとして連歌、音曲、能、香、立花は欠かせず、茶も大切な教養の一つでした。それを珠光が取り上げて幕府の一角で興行し、やがて紹鴎(ジヨオウ)、道陳(ドウチン)によって整備整頓され、利休によって完成されました。数寄とはその文字の示す通り、数を寄せることです。その個々のものが持つ味わい以上に別の世界が醸(カモ)し出されることで、これが数寄の世界です。
珠光の名言に「藁屋(ワラヤ)に名馬繋(ツナ)ぎたるがよし」という言葉が有ります。みすぼらしい藁屋に名馬が繋がれているのは、茶の湯の取り合わせのことを言っており、何とも趣の深いものだというようです。侘びと派手との相照にこそ茶の美が有るということでしょう。これが以後に言われる、さびの境地に相当すると思われます。
 この頃の社会の様相は応仁の乱を境に一変し、下剋上の風潮が世を覆いました。義政の東山御物も転々と売買されて、次第に三好、松永らの新興大名、興福寺、本願寺など大寺院、京都・奈良・堺・越前・博多の富商の所有になってしまいました。珠光の門弟には、珠光流の二代目を嗣いだ京都の村田宗珠(ソウシユ)、松村(まつむら)珠報(シユホウ)、篠(シノ)道耳(ドウジ)他大勢います。主に堺の富商が多いようです。
 堺の、それぞれ屋号を持つ主立った商人達は名器の所有を誇り、家業に勤しむ傍ら茶道に精進、数寄者としての自信を持っていました。珠光の直(ジキ)デシ弟子、鳥井(トリイ)引拙(インセツ)、誉田(コンダ)屋(ヤ)宗宅(ソウタク)、竹蔵屋(タケクラヤ)紹滴(ジヨウテキ)などが尊敬されていました。能阿弥の弟子島右京は珠光の死後、堺の町に移住し隠者となって空海と号し、その門下に北向(キタムキ)道陳が現れました。道陳は能阿弥流の茶の湯を伝えた最後の数寄者と見なされています。千利休は最初道陳に茶を教わりました。室町時代末期になって、鳥井引拙に次ぐ名人武(タケ)野(ノ)紹(ジヨウ)鴎(オウ)が出現しました。
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【参加者】:9名
  《会員》2名:大愚 龍巌
《一般》7名:
《新到者》0名:

【内容】
 何日か振りにキリッと寒い日でした。ストーブをつけてもかなりの寒さです。
 冬は木の窓を締めていることもあり、消防車出動の音しか聞こえないのでさみしいとのお話しがありました。たしかに前はあんなに鳴いていた鳥ももう来ません。川では寒い水の上を走り回って獲物を取っているのですが。
 けれどもまだ庭には雪が残っているので、窓にむかって雪を見ながら座禅をしたいとおっしゃった方がいました。次回は窓の方を向いても良いかもしれません。いずれにしても、座禅会は季節の移り変わりを感じられる良い機会です。暑さ寒さの話しだけだと人間にとっての話だけで終わってしまいます。
 仕事がハードで体調を崩してしまったという方のお話しもお聞きしました。病院の薬は結局症状を緩和するだけのものに過ぎず、根本的に心身の健康を取り戻したいということで座禅に興味をもって頂いたようです。
 僕の体験ではありますが、一年ちょっとくらい座禅や参禅修行を続けてからはもともと抱いていた悩みはほとんどなくなり、それ以後はもっと自分を自由自在に使って伸び伸びと生きたいという方向に変わっていったように思います。なので座禅には単に悩みの解決だけにはとどまらないものがあるのではないかと思っています。
 まだまだ寒さが続きますが、どうぞ一度はキリッと引き締まる座禅をご体験頂ければと思います。なかなか悪くないものです。
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クリエイト静座会を開催しましたので報告いたします。



日時:平成30年2月4日(日)午前9時30分~11時30分

場所:八王子クリエイトホール9階和室

内容:静座3炷香(25分×3)

参加者:12名(内会員1名)

概況:
・今回の新到の方はご夫婦とその子供2人のご家族でした。子供は小学4年の男の子と1年の女の子で、2人とも25分を2回しっかりと座り切ったのには驚きました。座禅の効用という本が上梓されましたが、小学生への効用もきっとあると感じました。
・静座終了後の茶話会には9名が参加しました。
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クリエイト静座会を開催しましたので報告いたします。

          記

日時:平成30年1月21日(日)午前9時30分~11時30分

場所:八王子クリエイトホール9階和室

内容:静座3炷香(25分×3)、輪読

参加者:一般の方 6名   会員 片野、栗原

概況:
・今回は新到の方1名が参加されました。八王子在住の女性でHPを見てこられたと仰っていました。
・静座後、4名で輪読をしました。井上魯堂著「人生と悟り」の抜粋で雑念への対処法についての部分を読みました。読後、自分とは何か、座禅の目的、悟りとは、についての意見交換を行いました。

合掌  道活 拝
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 坐禅はただ呼吸をするだけである。深く息を吸い、深く息を吐き出す。簡単なようでいて難しい。と同時に、自身が如何に普段浅い呼吸をしているか思い知らされる。眠り坐相(ダメ坐禅)がなかなか改善されないのはこのためである。
 眠る時も人は浅い呼吸をしているらしい。いびきを連呼する人の、あの音の狭間では呼吸が止まってしまっている!いびきをするおじさん、気を付けるべし。
 当たり前のようでいて、当たり前でない。君の名は「呼吸」-…。
 生物が生きていくには必要な運動である。空気を取り入れることでエネルギーに変えているのだから。深い呼吸は生み出したエネルギーを身体の隅々まで届ける。
 こんな話(大分うろ覚えである!)を伺ったことがある。とある事故で呼吸することさえ難しくなってしまった方がいた。呼吸をするだけで胸が苦しい。寝ても覚めても四六時中苦しさがつきまとう。そこでハタと気付く。こんな大変労力のいる「呼吸」という運動を、健康な人は何食わぬ顔で普段するなんて…。
 「吸うて吐き、吸うて吐きつつ、只事ならぬただごと」そんな心境を一言、こうまとめた。
語感を良くするならば、「吸うて吐き、吸うて吐きつつ白妙の、只事ならぬただのこと」かしらん。
 深い呼吸をするだけで、身震いするくらいの寒さをも受け入れられる。道に深く達した人は一呼吸で世界を切り取る。
 生物の根幹としての「呼吸」、侮る勿れ。
 そういえば、坐禅を「いのちのかい(・・)ふく(・・)」と喝破する御仁が琵琶湖にいたな…。
平成三十年睦月
翠珠記ス
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クリエイト静座会を開催しましたので報告いたします。

          記

日時:平成30年1月14日(日)午前9時30分~11時30分

場所:八王子クリエイトホール9階和室

内容:静座3炷香(25分×3)

参加者:一般の方 6名   会員 小野、臼杵、片野、古江、栗原

概況:
・2018年最初の静座会でしたが、新到の方2名を含めて11名の参加があり、盛会でした。
・今回は鸞膠庵老師にご参加頂きました。静座後の茶話会では新到の方からの質問に答えて頂き、ありがとうございました。
・今回は第2日曜日の開催になってしまいましたが、今年もできる限り毎月第一、第三日曜日の午前中に開催し、座禅をしたい方々のニーズに応えて行きたいと思っています。
合掌  道活 拝
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【参加者】:12名
  《会員》3名:如法 大愚 龍巌
《一般》9名:
《新到者》0名:

【内容】
あけましておめでとうございます。
 新年二回目の静坐会でしたが、12名の方にご参加頂きました。ありがとうございます。
 ストーブを点けていても少し寒い気温でしたが、みなさまビシっと坐っていらっしゃいました。
 女性の方も三名いらっしゃいまして、静坐会後の茶話会(お茶会)もにぎやかになって参りました。
 如法さんのお話しでは、日常生活を送っている時は自分に対しても、何に対しても、評価・価値判断をせざるを得なくて、それに疲れてしまうことも多い。坐禅をしている間はそうした評価・価値判断をせずにあるがままに坐っていられると良いですね、というお話しでした。
 あんまりにも坐禅に意気込みすぎてしまうと、かえって自分の我が出てきてしまうのかもしれません。いずれにしても、坐禅は奥が深いようです。
 正月開けのお仕事・家事・勉学に疲れてきてしまった方も、どうぞ坐禅にお越し下さい。

合掌 古江龍巌 九拝
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参加者 一般の方 8名   会員 如法 石仏 紫光

今年初めての静座会で寒い一日でしたが、お寺に着くと如法さんが堂内にストーブをつけていてくださり、かじかむことなく座禅が出来ました。
如法さんが茶話会で禅の話をして下さり、有難かったです。印象に残ったのは、自分で下した評価とか防御などで、落ち込んだり舞い上がったりする、そのことに人間は莫大なエネルギーを使っている、との話でした。私もつまらぬことに知らぬうちに負のエネルギーを使っているなと反省させられました。如法さんによれば、心地よいとか、反対に不快などはありのままに体験し、価値判断をしない、気づくだけにしなさい、とのことでした。この「気づくだけ」を「観」と言うそうです。座禅中につまらぬ雑念が起これば、気づくだけで捨てれば良いのだな、と思いました。座禅で心・頭のガラクタを捨てよう、との話で、これから実践しようと思いました。座禅中、雑念が出たら出たままにしてとらわれないようにしたいものです。
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計画を立ててからは早い、約半年でその時をむかえた。実はセドナって地球のパワーがみなぎっている場所があるんだけど。。。
ヴォルテックスっていうんだよね、不思議な岩山なんだけど、パワースポットでもあり、スピリチュアルな所でもあり、アートな
世界なんだな。その3つはある意味同じものかもしらんね。
こんな忙しいデザイナーが、アメリカに2週間、普通行けない、行こうとは思わない。ただホンと死ぬ。死んでもいいやって思って
いたんだよね毎日。だからできた、この死ぬってこと、禅の時にやってる(た)。。。
やっぱり続けて17年ほどやっているから知らず知らずのうちに熟成してきた。なんとなく色々わかってきた。
こうしてチャレンジすることの意味、また人生をかけてやってきた仕事の意味、それらは本当に死ぬ者狂いでないと
わからない生きている意味が見えてくる。冒険をしてみよう!やったことのないことをしてみよう。って人生の醍醐味じゃないか。
じつは、創造できる未来ってそれほど面白くないんだよね。嘘でしょ!これ!みたいなとき、ぞくぞくする喜びが不安もあるけど
沸いてくる。今回の旅行はそんな旅行だった。車でアリゾナ州をまわった。これは経験を積んできたからこそできる旅行だ。
仕事も夜中に行う。アメリカのネットは遅い、日本に比べたら1/10だよ、日本は本当に地球の未来なんだよ。
実は世界中が注目し、期待している。先進国と言われる国でもこれほどテクノロジーが発展し、あるいは老齢化し、
未来を見せてくれている国はそうは無いんだな。我々は今かかえている日本の問題を国に頼らずに国民の力でどうにかし、
この行き詰まり感のある日本社会を作り変える必要があるんだ。もう時間はないよ。行って見えてくるものが沢山ある。
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八木誠一『イエス』   古江龍巖

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2018/1/1 15:24
八木誠一という方が著された『イエス 人と思想7』(昭和43年、清水書院)を読んでいて、とても良い文章に出会えたので紹介します。

「自分の才能とか努力とか業績とかとは無関係に、まず深い意味で自分自身があるから、だから配慮の生が可能になるのではないか。(中略)実際そうなのである。そのことは、すがりつき、しがみつき追い求めていた目標から、それが達成できなければ自分の生の意味はないというような目標から、手を放してみればわかる。手を放したら、私はニヒルの底に落ちるだろうか。
事実はそうではない。そのときにはじめて私は立つのである。むしろ立てられるのである。それによって自分を立てようとしていたいっさいから手を放したとき、かえって自分が立つのである。自分に死んだとき、真の自己が生きるのだ。そのとき、今まで、これが自分だと思っていた自分がひとたび消え失せて、自分の手で立てたのではない自分、かえって「自分で」ということを可能にする自己が発見され、自覚される。
 これは自己の発見と言ってよい。自分の思いや計画や努力や所有や価値の実現や創造やに先だって、かえってこれらを可能にするような自分があることの発見だと言ってよい。配慮の営みに先だって自分がある。配慮の営みの主体(当体)は、大雑把に言えば意識的な自我である。しかしこのような自我が消滅したとき、より深い自己が発見され、確認される。これは否定すべからざる事実である。この発見の自覚の中には無限の自由と喜びと畏れがある。」(pp.116-117にかけて引用)
 多くの人は自分の価値とか目的とか評価とかのための配慮ばかりに明け暮れて、気づけばその配慮を自分の生それ自体であると勘違いしてしまう。そんな配慮の前に、まず自分自身は生きている、それが一番大事なことである、と八木誠一は言います。ただの人間であるイエスはただ人間の生き方を最も真実に生き、示した人であると考えます。(八木誠一さんはキリスト教とイエスの語ったイエスの宗教とは分けて考えなくてはならないと主張されています。)
 一番大切なことが何かを忘れてしまう、ときに気付いても、生活をしているうちにいつの間にか忘れてしまう。いろんなものが欲しくなっていろんなものを追っていくうちに、人を傷つけたり自分を傷つけたりしています。誠実に生きることは本当に難しく感じます。毎日毎日、何が大切なことなのかを確認しないと、時には全く訳のわからないことに執着していたりします。
 未熟な身なので自信を持って言うことはできませんが、坐禅をすることも、本当に大切なことは何かを確認する一つの助けになるのではないかと思います。坐禅の後は感覚が研ぎ澄まされるという経験を皆さまもよくお話しされているかと思います。坐禅の後は新鮮に世界を感じるように思います。生きているだけでも良いものだと思えるときもあります。
思い出話にはなりますが、初めて泊まり込みの摂心修行に参加した時、掃除の後自分の手を泡で洗っていると、その感覚が本当に気持ちよかったことに驚きました。何だか余計なことを考えなくても、幸せなのかもしれない、なんて思いました。晴天の下、ぽかぽか温まる体温を感じながらお寺の扉を雑巾で磨くだけでもなかなか良いもんだ、と思いました。

とは云え坐禅も悪い意味でだんだんと慣れていってしまうこともあるようで、いつでも初心に還って、一つ一つ大切に座りたいものであります。
2018年も皆さまご一緒に精進いたしましょう。
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