東京・八王子で座禅の体験 人間禅 八王子禅道場 - ブログカテゴリのエントリ
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参加者 一般の方  2名
    会員   加藤紫光

今回は、禅東院の静座会に参加されている方がお1人いらっしゃいました。座禅はまだ足が痛いそうですが、座相は良く、三昧を養っていらっしゃるようでした。座禅は初めのうちは足が痛いのがありますが、継続していくうちに慣れてきます。私は長年の腰痛で椅子座禅をしていますが、座布団で座禅できる方が羨ましいです。三昧になるには座布団で座る方が効果はあります。クリエイト静座会では、通常は初心者向けに、1回25分で3回座禅します。もし足が痛ければ椅子を使うこともできますので、禅に関心のある方はお気軽にご参加ください。
5月19日も静座会を行いますので、お時間が合えば是非ご参加ください。
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 5月12日 19日
 6月2日 23日
 7月7日 21日

  基本は第1、第3日曜日ですが、場所が取れない時など、多少変わることがあります。5月は第2、第3日曜日、6月は第1、第4日曜日です。6月は以前ご案内した日と変わっていますので、お間違えのないようお願いします。7月は第1、第3日曜日です。
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「人間」になる日   松田大愚

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2019/4/28 15:20
ずっと子どもの頃、よく、庭の草取りをする父の背中があった。
ただ、もくもくと、一本一本、黙って、草を抜く父。
当時は、こんなに退屈な作業なのに、
なぜ父が、無心に草をとるのか、さっぱり分からなかった。
少し大きくなると、屁理屈をこねて、
「時間の無駄じゃないの?」と、
草を取ること自体、面倒臭がって、
生意気に批判したりもした。
父はただ、黙って、汗をかき、草を抜く。
一本、一本、抜かれた草は、山になっている。
「本当の「人間」に、ならんといかん…」
当時の父の、誰知らずともつぶやく言葉が、
なぜか耳に残り、その後、経験を重ねていく自分の、
人生への「問い」へと育っていく。
「本当の「人間」とは、何なのか…」
「自分は、本当は、どう生きるべきなのか…」
やがて…。
その「問い」に引き寄せられた、
一つずつの、確かなご縁に導かれて、
私も同じ、禅の道へと入ることになる…。
だんだんと見えてくる、
父と同じ、景色。
一本抜けば、一本の分だけ、
確かに、綺麗になる。
目の前の、この場所も、まさにそうだし、
己の心の内も、また然り。
一本、一本。
今、この瞬間に、全身を打ち込む。
一本、一本に、本当の「心」を込める。
抜いても、抜いても、
煩悩の草木は、きりがない。
抜いても、抜いても。
抜いても、抜いても。
その「心」こそが、本当に尊いことを知るのは、
ずっと大人になってからのこと…。
私たちが「人間」になる道に、
近道は、存在しない。
まっすぐ。一直線に。
己に対して、真剣に「骨を折る」その先に、
私たちは、初めて、
ずっと、生まれる前からそこにあった、
本当の「宝物」を、見つけるのだ。
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参加者 一般の方 5名
    会員 加藤紫光

新到の方2名と、禅東院の静座会に参加された方1名がいらっしゃいました。毎回参加してくださるベテランの皆様も有難いのですが、新しい方が参加されると嬉しいものです。私が風邪をひき、茶話会をせずに申し訳なかったのですが、次回は元気に迎えたいです。
クリエイト静座会は、JR八王子駅・京王八王子駅共に近く便利なので、座禅に関心のある方は、お気軽にお越しください。
今後の予定ですが、5月12日、19日、6月2日、16日の日曜です。基本は第1、第3日曜日ですが、場所が取れない時など多少変わることがあります。5月も第2、第3日曜日となっています。ホームページでご確認ください。
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★耕雲庵立田英山(1893~1979年);東京市本所に生まれる。仙台第二高等学校入学。松島瑞巌寺の盤龍老師に参禅。大正3年、見性。大正5年両忘庵釈宗活老師に入門。大正6年「英山」の道号を授与される。大正8年、東京帝国大学を卒業、大学院で「脊椎動物の脳の発生」を研究。大正10年、中央大学予科教授に就任。大正12年、30歳で大事了畢、「耕雲庵」の庵号を授与される。昭和3年、35歳で師家分上。この後戦後まで両忘庵老師の名代として全国を巡錫。昭和22年「両忘禅協会」が閉鎖されたが、直ちに「人間禅教団」を発足させ、24年初代総裁に就任。ここに在家禅者が嗣法し伝法する歴史上全く新しい在家禅が誕生した。総裁退任は昭和44年、就任以降621人が参じ、支部は全国十一に及んだ。科学者らしい合理を重んじた宗教観、弟子達からは“親爺”と呼ばれる人柄、茶道、作陶、俳句、写真など芸術にも禅者ならではの独特の境地を開いた。86歳帰寂。

「禅の歴史」の終わりに、明治の文豪、夏目漱石が『禅』と関わり、その体験を小説にした『門』から、文豪の見た坐禅を引用する。
★夏目漱石(1867~1916年);『門』は明治43年(1910年)3月1日から6月12日まで朝日新聞に連載された。前年に、「それから」を連載したが、さらにその前年の「三四郎」からと続く3部作。
主人公の宗助は、友人から紹介状を貰って、鎌倉の円覚寺の釈宜道{筆者注:宗活老師と思われる}を尋ねる。
「山門を入ると、左右に大きな杉の木があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った、静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の寒気を催した。」中略
「老師{宗演老師か?}というのは五十格好に見えた。赤黒い光沢のある顔をしていた。その皮膚も筋肉も悉くしまって、何処にも怠りのないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇があまり厚過る、其処に幾分の弛みが見えた。その代わり彼の眼には、普通の人間に到底見るべからざる一種の精彩が閃いた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思いがあった。『まあ何から入っても同じであるが』と老師は宗助に向かって言った。『父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えてみたらよかろう』  宗助には父母未生以前という意味が良く分からなったが、何しろ自分というものは畢竟何物だか、その本体を捕まえてみろと云う意味だろうと判断した。」中略 「同時に彼は勤めを休んでわざわざ此処まで来た男であった。紹介状を書いてくれた人、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽率な振舞は出来なかった。彼は先ず現在の自分が許す限りの勇気を提さげて、公案に向かおうと決心した。・・・彼は悟という美名に欺かれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試してみようと企てたのである。そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事が出来はしまいかと、はかない望を抱いたのである。」 中略 「宗助はこの間の公案に対して、自分だけの解答は準備していた。けれども、それは甚だ覚束ない薄手のものに過ぎなかった。室中に入る以上は、何か見解を呈しない訳に行かないので、已むを得ず納まらないところを、わざと納まった様に取り繕った、その場限りの挨拶であった。彼はこの心細い解答で、僥倖にも難関を透過してみたいなどとは、夢にも思い設けなかった。・・・宗助は人のする如くに鐘を打った。しかも打ちながら、自分は人並みにこの鐘を橦木で敲くべき権能がないのを知っていた。それを人並みに鳴らしてみる猿の如き己を深く嫌悪した。・・・室の中はただ薄暗い灯に照らされていた。・・・この静かな判然しない燈火の力で、宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道の所謂老師なるものを認めた。・・・この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。『もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ』と忽ち言われた。『その位な事は少し学問をしたものなら誰でも云える』宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後ろに鈴を振る音が烈しく響いた。」

完。

参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)、擇木道場創建100周年記念小冊子、新潮文庫・夏目漱石「門」
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2、「笑   顔」
前述のとおり、小生は耕雲庵老大師に入門を許されました。初則のお許しを頂いた方も老大師です。見性を許されたときのことです。そのときの老大師はお顔がクシャクシャと喜びにあふれておりました。老大師の印象は、「よく怒る方だな」というものでした。修行者と顔を合わせると、とにかく怒っておりました。
その老大師が満面の笑顔をなさいました。何がそんなに嬉しいのだろうと思いました。そのときはまだ見性の実感は湧かず、実感できたのはしばらく経ってからのことです。
小生も修行歴が長くなり紆余曲折ありましたが、続けて来られたのもそのときの強い思い出と無関係でなかったように思います。老大師が帰寂されたのは昭和54年、12年間ご鉗鎚を頂きました。かけがいのないことです。
ほんとうの喜びを自分も味わい、他の人々の喜びも見たいものです。
合掌
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・山本玄峰(1866~1961);白隠禅師の再来と言われた山本玄峰老師は慶應2年、紀州湯の峰に生まれ、同郷の岡本家に養子に貰われる。20歳にて眼病を病み、医師より失明の宣告を受ける。
自殺の覚悟で日光華厳滝へ行って果たせず、さまよい越後で行き倒れる。幸い助けられて郷里へ送り返されるが、その後も四国の霊場を巡拝する。各地のお寺で25年間修行し、50歳で漸く成就して白隠ゆかりの三島竜沢寺に住する。
玄峰老師の逸話で、転向前のテロリストの共産党員として知られた田中清玄氏が竜沢寺へ転げ混んできた時のことである。一日老師は田中氏のところへ来て問われる「田中、おまえは何のために修行しておる?」「世のため、人のために修行しています」それを聞いて老師は「馬鹿者!」と雷が落ちた。「わしはわしのために修行しておる。世のため人のために修行などせぬ」
老師は口の先だけで世のため、人のためなどと公言する輩の偽善を許さなかった。先ず己を整えようとせぬ者が、何で世のために人のために役に立とう。人類の平和を口にしつつ投石し暴行する者のどこに真実があろうかと。また、昭和20年8月の終戦直前、鈴木貫太郎首相に宛た手紙に、「貴下の本当のご奉公は、これからであるから先ず健康にご注意くだされ、どうか忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、国家の再建に尽くして頂きたい」と書き、鈴木首相の苦衷を察して激励されたものであった。この「忍び難きを忍び行じ難きを行ず」と言う言葉は玄峰老師の創作ではない。初祖達磨大師が弟子を訓戒されたことばの中にある。「諸仏無上の妙道、曠劫に精勤して、行じ難きを行じ、忍び難きを忍ぶ、豈小徳小智、軽心慢心を以て真乗をねがわんや」とあるのによったのである。
山本玄峰、禅者の言葉「垢で垢を落とすのじゃ。公案とか何とかいうが、みな垢の一つのようなものじゃけれだも、その垢をもっていかんとほかの垢が落ちん。石鹸がソーダがないとほんとうに垢じんだものが白くならないのと同じことじゃ。からだの垢は自然にいつついたらやらわからん。心の垢もそうじゃ。現世のことばかり、生まれてきてからの目の先のことばかり思うけれども、宿因ということじゃぜ。」

・鈴木大拙(1870~1966);明治3年に石川県金沢市に生まれる。在家居士であるが、鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅し、北米に最初の禅ブームを起こした。21歳で上京し、東京帝国大学哲学科選科で学ぶかたわら、鎌倉円覚寺で参禅する。最初は今北洪川禅師に参禅したが、25年1月に洪川が他界したため、法嗣釈宗演に参禅した。明治26年、釈宗演が世界万国宗教者会議にて講演する原稿の英訳を担当したのが大拙であった。会議の翌年、宗演より「大拙」の号を賜った。宗演から授かった公案は「趙州無字」でしたが、大拙は「ともかく無字を5年ほど工夫して、アメリカに発つ前の年の臘八の摂心で、一応“見性”したわけだが・・・」また、「25年の正月、洪川老師が亡くなられて、その年の秋に、宗演老師が管長に出られた。・・・26年の春、帰源院に寄宿したのかな。帰源には宗活和尚がいた。のちの両忘庵だ。・・・帰源院では、わしら夏目さんといっしょになったわけだ。」
選科終了後に渡米し、11年間にわたり仏典や漢籍の英訳・編集に携わる。帰国して学習院大学で英語教師を務めながら、昭和13年に『禅と日本文化』を出版した。この書は後に大幅な改訂増補がなされ、『Zen and Japanese Culture』と改名して再刊され、今でも、禅を学ぶための基本書となっている。
アメリカから初めて帰朝されたとき、東京大学の印度哲学研究室に仏教の専門学者ばかりを集めて話をされたことがある。その時大拙は机の上の花瓶を指差して「これは花瓶である。しかし、これを花瓶だと見るときに、花瓶と私の間に、花瓶とはこういうものだという先入観がはいりこんでしまっている。それではこの花瓶とわたしとがほんとうに一つになっているとは言えぬ。それでは現実(リアリティ)がない。だから、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである」

・両忘庵釈宗活(1871~1954);宗活老師は宗演禅師の法を継ぎ、主として在家の者の教化にその生涯を捧げられた禅界の大宗匠である。明治3年東京麹町の開業医の四男として生まれた。
英才教育を受けるが、11歳のときに母が亡くなる。臨終に際して次のように遺言された。「今言うことは母の遺言である。肝に銘じて聴け。これから先幾多の辛酸を嘗め、浮世の荒波に揉まれることであろうが、第一に心掛けるべき事は、正しき教えに入って、心を玉のごとく磨いて行くことである。世間一般には富貴栄達・立身出世を第一に望むのであるが、この母はそれを望まぬ。この志を貫くが為には、男子大丈夫の心を突っ立てて独立独歩、他人に依頼心を起こしてはならぬ。」老師はこの最後の訓戒が、子供心にも五臓六腑に染み込んで、終生富貴栄達を望まざる意志と、立身出世を第一義とせざる念慮と、独立独歩の3条件を、自身の根底に植えつけられたと述懐されている。20歳の時に今北洪川禅師に入門、翌年見性して石佛居士の道号を授与された。その時「長い間の煩悩も一時に消え失せ、青天白日の境涯と、真に独立独歩の安心立命を得、亡き母の真面目に会うことが出来た。今まで此の如き尊い修行があることを夢だにも知らなかった」と述べている。今北洪川禅師が帰寂された後は、円覚寺管長に就任された宗演禅師につき、修行に精進された。宗演禅師の傍らに侍すること数年の後、師命により帰源院の管理を命ぜられ、摂心に入山する居士・禅子の面倒を見る。因みにこの頃、夏目漱石が帰源院を尋ねて青年僧宗活の指導を受け、その体験をもとに小説「門」が書かれたという。
明治31年、29歳にて東洋の旅に出る。2年後、帰国して宗演老師の勧めで在家禅の『両忘会』を再興、両忘庵の庵号を授与される。さらに明治39年渡米、「北米両忘会」を創設、老師はその後も日本全国を休む間もなく巡錫し、各地に支部を設立、各宗派に属しない居士専門道場として永久に存続させるべく大正14年に「財団法人・両忘協会」を発足させた。新進気鋭の老師は、日本臨済禅の正脈を禅僧に非らざる在家の修行者に荷担させ、禅の歴史上初めて、新たな僧伽を確立したのである。なおその時、九州鎮西支部及び岡山中国支部を立田英山居士に支部長を任命している。「両忘協会」は昭和21年、宗教法人「両忘禅協会」とし、さらに翌年22年12月「両忘禅協会」の閉鎖を宣言された。



参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)、擇木道場創建100周年記念小冊子
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小生が入門を許された方は、人間禅創設者 耕雲庵英山老大師です。昭和42年4月、大学3年のときです。老大師74才、人間禅創立18年後、創立期から成長期に向かう時期でした。数年後、妙峰庵孤唱老師に参じました。老大師に参じた期間は2年間位になります。その中から2題取り上げます。

1、「公私の区別」
 小生は大学2年の後半より、松戸五葉塾で妙峰庵老師(当時老居士)にご指導頂きました。塾生時代のことです。当時老大師は数か所地方へご巡錫されておられました。 その送迎を塾生が主に担当しておりました。
ある時、小生ともう一人の塾生がお迎えをする番になりました。東京駅より市川駅に向かう車中のことです。車掌が検札に廻ってきました。小生は老大師より切符を預かり車掌に渡したところ、わずかな金額(10円?)不足でした。小生はわずかな金額のため、老大師に催促するのをためらいました。自分で払おうとしたところ、老大師がスッ-と立ち上がり、「君が払うのはおかしい。」と、ご自分の小銭入れから10円玉を取り出し、車掌に渡されました。老大師が車掌とのいきさつを小耳にはさんでいたようです。それだけのことですが、小生にとって忘れられない事となりました。
入塾のとき、妙峰庵老師に連れられ、老大師のお住まいにご挨拶に伺いました。普段勇ましいご指導をなさる老師が、老大師の前では平身低頭でした。道場の状況を知らなかった小生は、緊張した雰囲気の中で老大師はすごい方なのだなと、強く印象づけられました。
  その老大師が小さな小銭入れをのぞき込み、10円玉を探しておられる姿に、何か不思議な感じを持ちました。今思い出しますと、それは自然なお姿でした。当時、数か所尋ね求めていた小生は、この道場はほんものかも知れないと思いました。
そのときの事を自分なりに、「公私の区別」をつけると受け止めております。それからは、反省すべきことは多々ありますが、いましめとして社会生活を送ってまいりました。今は「公の責任」と変えて、送ってまいりたいと思っております。
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・明治維新(1868)の後、仏教界は神仏分離令をはじめとする政府の宗教政策で大きく転換を迫られ、廃仏毀釈で寺院、仏像の破壊や、僧侶の還俗などを見た。また明治政府は教導職の寺院住持を統括するために各宗に管長を置き、一宗一管長制とした。この一宗一管長制にて曹洞宗、臨済宗、黄蘗宗は禅宗一宗となったが、やがて分離独立し、明治9年には禅宗3派となる。その後臨済宗では南禅寺、天龍寺、妙心寺など各派に分離し、現在では臨済宗14派の成立をみる。
 この期の臨済宗には滴水宜牧、荻野独園、洪川宗温(今北洪川)洪嶽宗演(釈宗演)など明治の禅匠によって支えられ現代に至る基礎が築かれた。

  ・蒼龍窟今北洪川(1816~1892);9歳で四書五経を了じ、儒学を学び19歳にて私塾を開くが出家の思い強く、妻子を預け相国寺にて修行、出家する。岡山・曹源寺の儀山和尚に参禅、38歳にて嗣法。『禅海一瀾』を著す。円覚寺第201代住職、明治15年初代管長に就任。両忘会や円覚寺正傳庵に擇木園の居士林を創設、在家の人たちへの教育に積極的に取り組む。山岡鉄舟、高橋泥舟、中江兆民、西田幾多郎、鈴木大拙等が参禅をした。当時は出家するしか伝法本格の禅に接する事ができなかったが、在家の人が禅に参じることができるように心身を尽くされた。
 
・山岡鉄舟(1836~1888):鉄舟は本所大川端にて旗本小野家の四男として誕生、名前は鉄太郎。小野家は徳川家康以来の直参ですが、17歳にて両親に先立たれ5人の弟たちを育て苦難の道を歩む。20歳の時に槍の名人山岡静山の門に入る。これが縁で静山の弟、高橋泥舟のすすめで山岡家を継ぎ、泥舟の妹と結婚する。少年時代から剣術に精励し、浅利義明について一刀流を学び師事する事数十年に及び明治13年45歳の時に一刀流夢想剣の極意を得、さらに“剣禅一如”の無刀流を創始する。禅門についても幼少から親しみ、幕末から明治に掛けてまれにみる剣人であり、禅人であった。20際の頃、武蔵長徳寺の願翁禅師について無字の公案を授かり12年間辛苦し、一日箱根入湯の際に悟り得た。その後、荻野独園、今北洪川等の禅師につき、最後に由利滴水禅師につき「両刃鋒を交えて避くることを須いず」の一句によって大悟徹底した。鉄舟を指導した天竜寺の由利滴水禅師は、その指導ぶりの峻烈さで鳴っていたひとであり、その滴水和尚が「わしが鉄舟に接した時は一回一回が命懸けであった。ためにわしも大いに力を得た」と述懐された。
鉄舟の生活は質素をきわめていて、邸内には鼠が跳梁していたが鉄舟が坐禅を始めると一匹もいなくなった。夫人が不思議に思って鉄舟にこの由を告げると「わしの坐禅は鼠の案山子ぐらいが相場か」と大笑いした、と言う。 鉄舟はあるとき講談の名人三遊亭円朝を招いて桃太郎を一席語ってくれと頼んだ。そこで円朝は舌を振るって一席これを演じたが、鉄舟はにべもなく「おまえは舌で語るから桃太郎が死んでしまっている」と言った。以来、円朝は懊々として楽しまない。ついに自分から鉄舟のもとを訪ね、「舌をなくして語るには禅をやるしかない。禅をやるには智慧も学問もいらぬ、ただ根気がありさえすればよいと言う。私は愚鈍ながら、芸の根気があります。どうか禅をやらして下さい」と頼んだ。そこで鉄舟が「趙州無字」の公案を授ける。それから2年間円朝は辛苦して無字の公案に取り組み、これで良いところへ落ち着いたので、鉄舟のところへ駆けつけ“桃太郎”を演じた。
みごとな桃太郎であったので、鉄舟は「うん、今日の桃太郎は生きているぞ」と許したと言う。円朝は滴水老師から無舌居士の号を与えられる。

山岡鉄舟居士辞世 『腹張りて、苦しき中に 明烏』

・楞伽(リョウガ)窟釈宗演(1859~1919);
12歳で京都妙心寺にて得度し、18歳で鎌倉・円覚寺の今北洪川に参じて26歳(明治15年)で嗣法。観音菩薩の再来と洪川禅師にこの上なく大事にされた。禅道修行の傍ら慶應義塾にて福沢諭吉に師事し英語、洋学を学ぶ。山岡鉄舟の支援を得て、明治20年から3年、セイロンに学ぶ。インド、中国等アジア各国に留学、帰国後明治25年(1892年)33歳で円覚寺派管長に就任。この年、入沢石佛居士(後の宗活)が入門。1893年、シカゴにて開催された万国宗教大会に、日本仏教代表団の団長として参加。その後各国を巡り、帰国後初めてアメリカ人の参禅を聞く。1906年再渡米、通訳として鈴木大拙を伴いアメリカ人に禅指導を行った。政・財界、夏目漱石等知識人への講義・指導を通じて多くの信奉者を持ち、弟子の数3千と言われた。


参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)、擇木道場創建100周年記念小冊子
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●若い頃読んだ本の中に、「人生は棺桶に片足を入れたとき、“よかった”と思えれば、その人の人生は成功した人生である。」と述べられておりました。そのときは、その通りだと思いました。そういう人生を送ろうと思いました。
只、禅の修行をしてきて、今は考えが変わりました。それでは手遅れ。実際に生きている「只今(ただいま)」という瞬間。只今のその一瞬のときに“これでよい!”と思える人生。それがほんとうの人生だと思うようになりました。
禅は「行の修行」、それも「一瞬の行の修行」。そういう心構えで今後も禅の修行に励んで参りたいと思います。
  ≪正受老人≫ (白隠禅師の師)
老人曰く、『一大事(いちだいじ)と申すは 今日只今(ただいま)の心(こころ)也、的面(てきめん)の今を失(うしな)ふに 心づかず。』
 
●小生の好きな言葉
≪耕雲庵英山老大師≫ (人間禅創始者)
(「凡夫禅」第2号 昭和21年4月)
『禅とは心なり。只 それだけのことなり。それだけのことに禅者は一生をかけて努力す。愚者(ぐしゃ)は之を嗤(わら)はん。智者(ちしゃ)は之を知る。』
                     (完)
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