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ブログ - 禅の歴史(8) 在家禅の興隆   山沢幽渓(横浜支部)   

禅の歴史(8) 在家禅の興隆   山沢幽渓(横浜支部)   

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2019/3/19 11:06
・山本玄峰(1866~1961);白隠禅師の再来と言われた山本玄峰老師は慶應2年、紀州湯の峰に生まれ、同郷の岡本家に養子に貰われる。20歳にて眼病を病み、医師より失明の宣告を受ける。
自殺の覚悟で日光華厳滝へ行って果たせず、さまよい越後で行き倒れる。幸い助けられて郷里へ送り返されるが、その後も四国の霊場を巡拝する。各地のお寺で25年間修行し、50歳で漸く成就して白隠ゆかりの三島竜沢寺に住する。
玄峰老師の逸話で、転向前のテロリストの共産党員として知られた田中清玄氏が竜沢寺へ転げ混んできた時のことである。一日老師は田中氏のところへ来て問われる「田中、おまえは何のために修行しておる?」「世のため、人のために修行しています」それを聞いて老師は「馬鹿者!」と雷が落ちた。「わしはわしのために修行しておる。世のため人のために修行などせぬ」
老師は口の先だけで世のため、人のためなどと公言する輩の偽善を許さなかった。先ず己を整えようとせぬ者が、何で世のために人のために役に立とう。人類の平和を口にしつつ投石し暴行する者のどこに真実があろうかと。また、昭和20年8月の終戦直前、鈴木貫太郎首相に宛た手紙に、「貴下の本当のご奉公は、これからであるから先ず健康にご注意くだされ、どうか忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、国家の再建に尽くして頂きたい」と書き、鈴木首相の苦衷を察して激励されたものであった。この「忍び難きを忍び行じ難きを行ず」と言う言葉は玄峰老師の創作ではない。初祖達磨大師が弟子を訓戒されたことばの中にある。「諸仏無上の妙道、曠劫に精勤して、行じ難きを行じ、忍び難きを忍ぶ、豈小徳小智、軽心慢心を以て真乗をねがわんや」とあるのによったのである。
山本玄峰、禅者の言葉「垢で垢を落とすのじゃ。公案とか何とかいうが、みな垢の一つのようなものじゃけれだも、その垢をもっていかんとほかの垢が落ちん。石鹸がソーダがないとほんとうに垢じんだものが白くならないのと同じことじゃ。からだの垢は自然にいつついたらやらわからん。心の垢もそうじゃ。現世のことばかり、生まれてきてからの目の先のことばかり思うけれども、宿因ということじゃぜ。」

・鈴木大拙(1870~1966);明治3年に石川県金沢市に生まれる。在家居士であるが、鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅し、北米に最初の禅ブームを起こした。21歳で上京し、東京帝国大学哲学科選科で学ぶかたわら、鎌倉円覚寺で参禅する。最初は今北洪川禅師に参禅したが、25年1月に洪川が他界したため、法嗣釈宗演に参禅した。明治26年、釈宗演が世界万国宗教者会議にて講演する原稿の英訳を担当したのが大拙であった。会議の翌年、宗演より「大拙」の号を賜った。宗演から授かった公案は「趙州無字」でしたが、大拙は「ともかく無字を5年ほど工夫して、アメリカに発つ前の年の臘八の摂心で、一応“見性”したわけだが・・・」また、「25年の正月、洪川老師が亡くなられて、その年の秋に、宗演老師が管長に出られた。・・・26年の春、帰源院に寄宿したのかな。帰源には宗活和尚がいた。のちの両忘庵だ。・・・帰源院では、わしら夏目さんといっしょになったわけだ。」
選科終了後に渡米し、11年間にわたり仏典や漢籍の英訳・編集に携わる。帰国して学習院大学で英語教師を務めながら、昭和13年に『禅と日本文化』を出版した。この書は後に大幅な改訂増補がなされ、『Zen and Japanese Culture』と改名して再刊され、今でも、禅を学ぶための基本書となっている。
アメリカから初めて帰朝されたとき、東京大学の印度哲学研究室に仏教の専門学者ばかりを集めて話をされたことがある。その時大拙は机の上の花瓶を指差して「これは花瓶である。しかし、これを花瓶だと見るときに、花瓶と私の間に、花瓶とはこういうものだという先入観がはいりこんでしまっている。それではこの花瓶とわたしとがほんとうに一つになっているとは言えぬ。それでは現実(リアリティ)がない。だから、花瓶を花瓶と見て花瓶と見ない見方が必要なのである」

・両忘庵釈宗活(1871~1954);宗活老師は宗演禅師の法を継ぎ、主として在家の者の教化にその生涯を捧げられた禅界の大宗匠である。明治3年東京麹町の開業医の四男として生まれた。
英才教育を受けるが、11歳のときに母が亡くなる。臨終に際して次のように遺言された。「今言うことは母の遺言である。肝に銘じて聴け。これから先幾多の辛酸を嘗め、浮世の荒波に揉まれることであろうが、第一に心掛けるべき事は、正しき教えに入って、心を玉のごとく磨いて行くことである。世間一般には富貴栄達・立身出世を第一に望むのであるが、この母はそれを望まぬ。この志を貫くが為には、男子大丈夫の心を突っ立てて独立独歩、他人に依頼心を起こしてはならぬ。」老師はこの最後の訓戒が、子供心にも五臓六腑に染み込んで、終生富貴栄達を望まざる意志と、立身出世を第一義とせざる念慮と、独立独歩の3条件を、自身の根底に植えつけられたと述懐されている。20歳の時に今北洪川禅師に入門、翌年見性して石佛居士の道号を授与された。その時「長い間の煩悩も一時に消え失せ、青天白日の境涯と、真に独立独歩の安心立命を得、亡き母の真面目に会うことが出来た。今まで此の如き尊い修行があることを夢だにも知らなかった」と述べている。今北洪川禅師が帰寂された後は、円覚寺管長に就任された宗演禅師につき、修行に精進された。宗演禅師の傍らに侍すること数年の後、師命により帰源院の管理を命ぜられ、摂心に入山する居士・禅子の面倒を見る。因みにこの頃、夏目漱石が帰源院を尋ねて青年僧宗活の指導を受け、その体験をもとに小説「門」が書かれたという。
明治31年、29歳にて東洋の旅に出る。2年後、帰国して宗演老師の勧めで在家禅の『両忘会』を再興、両忘庵の庵号を授与される。さらに明治39年渡米、「北米両忘会」を創設、老師はその後も日本全国を休む間もなく巡錫し、各地に支部を設立、各宗派に属しない居士専門道場として永久に存続させるべく大正14年に「財団法人・両忘協会」を発足させた。新進気鋭の老師は、日本臨済禅の正脈を禅僧に非らざる在家の修行者に荷担させ、禅の歴史上初めて、新たな僧伽を確立したのである。なおその時、九州鎮西支部及び岡山中国支部を立田英山居士に支部長を任命している。「両忘協会」は昭和21年、宗教法人「両忘禅協会」とし、さらに翌年22年12月「両忘禅協会」の閉鎖を宣言された。



参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)、擇木道場創建100周年記念小冊子
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