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ブログ - 禅の歴史(3) 唐で栄え、鎌倉時代になって日本へ   山沢幽渓(横浜支部)

禅の歴史(3) 唐で栄え、鎌倉時代になって日本へ   山沢幽渓(横浜支部)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2018/11/1 16:47
・馬祖道一(唐、707~786):唐王朝を揺るがす「安史の乱」(755~763)があって、禅宗も各地に分派が興隆したが、中唐の時代以降最終的に禅門の主流を占めるのが馬祖道一の一門であった。六祖慧能―南嶽懐譲―馬祖道一の系譜を掲げつつ「即心是仏」「平常心是道」と説いた。
馬祖とその師である南嶽懐譲との出会いは以下のようであった。懐譲が般若寺と言う寺に行ったところ、馬祖が毎日坐禅をしていた。懐譲が問う。「あなたは毎日坐禅しているそうだが、坐禅してどうする気だ」「はい、仏になろうと思います」すると懐譲はどこからか瓦を拾って来て、石の上でごしごし磨ぎ始めた。気になるので馬祖が問うた「師よ、それを磨いてどうなさるつもりですか」「うん、これを磨いて鏡にしようと思っている」「瓦を磨いたって鏡なんかになりませんよ」「そうか、瓦を磨いたって鏡にならんか。それじゃ、坐禅して仏になれるのかな」南嶽の言うところは、坐禅と禅を履き違えるなということである。坐禅、坐ることは確かに大切であるが、坐ることは手段であって、禅そのものではない。ただ坐っているだけではどうにもならぬ。そこで馬祖は南嶽に問うた「では、どうしたらよいのですか」これに対する南嶽の返答は「人が車に乗って行く時、車が進まなかったら、車を打つのが良いか、牛を打つのが良いか」
・臨済宗、曹洞宗へ:六祖慧能から、南嶽懐譲、馬祖道一、さらに百丈懐海と続き、臨済義玄が臨済宗宗祖となる。一方、馬祖らの一派から別れて、慧能―青原行思―石頭希遷という系譜を掲げ洞山良价が曹洞宗を起こす。
・百丈懐海(唐、749~814):ある僧が百丈に問うた「ありがたいこととはどういうことですか」百丈は答えた「独坐大雄峰」大雄峰とは百丈山のこと。わしがただ独りこの大雄峰に坐っている。この事実ほどありがたいものはないと百丈は言う。まことに百丈の面目躍如としている。「おれがここにいる」どんなときでもそう言えたら、人生はどんなにすばらしいか。「百丈野狐」
・南泉→趙州従諗(じゅうしん)(778~897):若くして南泉の弟子になった趙州、ある日趙州は南泉に訪ねた。「道とはどういうものですか」「平常心が道だ」「そう仕向けるべきものですか」「仕向けようとすると違ったものになる」「それでも、考えなきゃそれが道であるということも分からないでしょう」「道は知にも属さず、不知にも属さない。知は妄想だし、不知はぼんやりしている。もし本当に疑いのない道に達したら太虚ががらんとしてあけっぴろげであるようなものだ。もうなんにもいうことはない」これだと趙州は悟った。平常心、無心、いずれも意識がどこにも引っかからずに生きて行けることである。素直にすっすっと体が動いて行くことである。当たり前のことを当たり前にやる、という事。例えば道は歩いて行くものである。歩いて行く道を離れて、抽象的な道を考えるということを趙州はしない。道を本当にちゃんと歩いている者なら、「道とはどんなものですか」というような事は問わない。道は自分で歩くより他はない。歩いて、歩いて歩き抜いて、無心に歩けるようになったとき、もはや道について問うことはない。
・唐から宋の時代になると、禅が文人官僚に広く浸透し、禅の制度化、社会的に組み込まれた。禅院が官寺として国家の統制下に置かれた。「五山十刹」の制度も成立した。また宋代禅は「公案」の時代と言われる。先人の問答の記録を禅門共有の古典“公案”として選定し、それを参究することが修行の中心となっていった。碧巌録がその代表。
・鎌倉時代、多くの僧が禅の教えを求めて中国・南宋に渡り、日本へと禅を伝えた。その代表的な人物が臨済宗黄龍派の禅を伝えた栄西であり、曹洞宗では道元である。
・明庵栄西:1202臨済宗の印可を受けて帰朝し、建仁寺(京都)を建立する。「興禅護国論」を著すなど興禅を意識し日本臨済宗史の起点となる。
・応燈関の法系:大応国師(南浦紹明)―大燈国師(宗峰妙超)―関山慧玄の3代を祖とする。中世以来の禅の一派。大応国師は鎌倉中期に宗に入り、宋朝臨済宗の一派、虚堂智愚の法を受け、太宰府の崇福寺にて30年、晩年、京の万寿寺、鎌倉の建長寺に移って多くの弟子を集める。その一人が大燈国師。
・1246年、蘭渓道隆が渡来し、北条時頼の開基で鎌倉に建長寺を開創、執権・北条時宗の招請で無学祖元が渡来して、1282年に円覚寺を開創した。さらに1292年南禅寺が創建された。
・鎌倉幕府が滅び、建武の中興を樹立した後醍醐天皇の支援を受けて、大燈国師は大徳寺を創建(1326)、天皇は大徳寺を本朝無双の禅苑とした。
・宗峰妙超(大燈国師):永年患っていた足を死ぬときぐらい言うことを聞け、と言って自分の手で足を折り曲げ結跏趺坐された。そのとき血が出て法衣が真っ赤に染まり、そのまま坐亡された。
 ・花園天皇も禅に深く傾倒し、大燈国師に参禅された。花園の離宮を禅寺とすることを発願し、大燈国師の法嗣、関山慧玄を開山として妙心寺を開創する。
 ・夢想疎石(夢想国師):南北朝時代に南朝の後醍醐天皇と、その敵であった足利尊氏の両方から尊敬されていた。七人の天皇から国師号を贈られていたので「七朝の国師」と言われた。木造や絵を見てもいずれも俗に“夢想肩”と言ってなで肩の非常に優しい高貴な感じの肖像である。ところがやさしいどころか大変きついところがあった方で、夢想国師の書かれた「二十三問答」の一節ある“ただ父母の縁によりて見え、かりにし縁つくれば、もとの如くなるまで也。・・・・・・実には生まれも死にもせず、生きるとても来るものもなく、死するとても去る者なし」
 人間が生きているということは、これは只父母の縁によって人間としてここにあるだけのことだ、実を言えば生まれることも死ぬこともない。その生まれることも死ぬこともないところをつかまえる。というのである。夢想国師の老婆親切である。
 ・室町幕府を開いた足利尊氏、更に三代将軍の足利義満の時代には禅寺(主に臨済宗系)が時の政権と結びつき、京都を中心として、その近辺に多く建立された。天龍寺、相国寺などが創建された。

参考資料;平凡社・日本のこころ239「禅宗入門」(2016)、NHKブックス35「禅―現代に生きるもの」紀野一義(1997)、講談社学術文庫「禅と日本文化」柳田聖山(1997)、『禅』誌2002~2016(多数)
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