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ブログ - お茶の歴史(9)宇治のお茶   大塚慈香

お茶の歴史(9)宇治のお茶   大塚慈香

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2018/9/6 21:05
 数年の後、茶作りの匠達は、近衛家の取りなしにより帰参を許され、宇治に帰り、再び茶業に励む事になりましたが、茶づくりの匠であっても、宇治の支配者、権力者では無くなりました。戦乱の宇治の町からやゝ離れた木幡の辺りに存在した森氏が信長より禄(ロク)を受けて、以後宇治茶業を代表する人物となりました。
そして、丹波の国上(カン)林(バヤシ)郷を本拠とした土豪上林氏の一族のうち製茶技術をもって宇治に移住した上林加賀守久重の一家が戦乱による宇治の実力者達の混乱に乗じて急速に台頭して、森家と肩を並べるようになりました。
当時、森家は信長から知行三百石を与えられておりました。上林家は天正五年以後百五十石を与えられ、両者共に「宇治お茶頭取(トウドリ)」の地位に在り、相(アイ)拮抗(キツコウ)しました。信長と秀吉の時代、宇治茶業界を支配したのは森、上林の両家でした。森氏は家康の時代になって「お茶の間違い」を起こし、知行を召し上げられて没落しました。
 将軍家の飲用する碾茶(ヒキチヤ)は以前から白色がかったように仕立てたもので、利休の次の時代、織部時代に創製された碾茶は青味のある仕上げであった処から、白味がかったものが初(ハツ)昔(ムカシ)、青味のものが後(ノチ)昔(ムカシ)と命銘されました。将軍お召しのお茶ですから、何處の茶師も此の両者を最上品とする事に決めています。碾茶に銘(メイ)を付けるようになったのはこの頃からです。森家没落後の宇治茶業界は嫡(チヤク)流(リユウ)上林六郎家及び、一族の竹庵の後裔(コウエイ)である上林又兵衛家両者が、天領(幕府直轄領)とされた宇治の代官兼御茶頭取に任じられ、上林一族の独壇場となりました。
将軍家のお茶壺が宇治を出発する迄は、何人たりとも宇治から新茶を持ち出してはならぬという鉄則があったそうです。
幕府から預かる御壺三個と他に幾つかの壺がありますが、一つの壺は大判一枚と決まっていたようです。
幾多の災害、茶師の栄枯があっても、代官の上林家による宇治の施政(シセイ)、御茶師仲間の組織的活動はお茶壺道中と共に幕末、維新まで守り通されました。合掌
 (平成27年10月8日 第82回八王子支部摂心会における講話)
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