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ブログ - お茶の歴史(8)織田信長の時代と堺   大塚慈香

お茶の歴史(8)織田信長の時代と堺   大塚慈香

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2018/5/20 21:27
 その頃、勢力を得た織田信長が、三好長慶(ナガヨシ)、松永弾正によって殺された足利義輝の弟にあたる義昭を奉じて岐阜より上洛します。信長は三好、松永の党を征服すると、堺に二万貫の矢銭(ヤゼニ)を課してきました。
今まで自治制を布いて、どの大名にも支配された事の無い自由都市堺の町人にとっては大問題であり、早速周囲の堀を深くし、木戸を固め、菱の実をマ蒔き、浪人を大勢傭って軍備を整え、信長との一戦を覚悟しましたが、最終的には、信長に取り入った方が上策と、遂に軟派の申し出により矢銭を出す事になりました。
 この非戦派は殆どが数寄者で、今井宗久、津田宗及など率先して信長に近づいています。程なく堺に代官が置かれ、この町も信長配下に属することになりました。同時に、信長は京都、堺の名器を集め出しました。これを世人は名物狩りと言いました。これは足利義政の東山御物制定に倣ったものと思われます。かくして、天下の名器は続々と信長の元に集められ、堺の数寄者達は我も我もと信長に接近し、家臣達に茶の指南をしました。信長もこの道に親しむにつれて、これが社会の秩序回復の近道で有ることに気付き、茶の湯政道と称して、部下にも将士にも茶の湯を学ぶ事を奨励しました。信長は武(ブ)略(リヤク)一辺倒の反面、数寄大名足らん事を心掛けていたようです。又、重商主義政策を実施する立場から、堺の町を直接支配下に入れ、堺衆の今井宗久、津田宗及、千利休を御(オ)茶(サ)頭(ドウ)として召抱え、安土城内に茶屋を建て、京都に上洛すれば相国寺、妙光寺、妙覚寺などで盛んに茶会を催して、自ら茶を点てゝ振る舞ったそうです。家臣の内で特に戦功の著しい者に名物茶器を賞与とし、茶会を開く事を許可しました。許可されぬ者は茶会を開く事が出来ません。信長配下の武将、柴田勝家、ニワ丹波長秀、佐久間正勝、明智光秀等は恩賜の太刀の他、名物茶器を与えられました。秀吉も播州攻略の功労で、朝倉(アサクラ)肩衝(カタツキ)、茶入他七品を下賜(カシ)され、茶会を開くことが許可されました。その時の、秀吉感激の手紙が残っています。
天正元年(1573年)夏、宇治の槇島(マキシマ)城に籠もって、信長に反旗を翻した十五代将軍義昭が、逆に信長に攻められて、名実ともに室町幕府は滅亡しました。この時信長に宇治の町並みは焼き払らわれ、室町幕府の直接、間接の庇護を受けていた宇治の有力者、即ち茶作りの匠達は戦乱に巻き込まれ各地を流浪する事になりました。
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