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ブログ - 反省から生まれる精進   古江龍巖

反省から生まれる精進   古江龍巖

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2018/5/9 20:47
 人々を導いてゆくような偉大な修行者、宗教者、人格者の言葉を見ると、誰しもが徹底的に己に対して謙虚であるように感じます。十分立派な大人物じゃないか、と感じるのに、決してえばらず、どこまでもどこまでも自分を磨いているような人が多いです。
 どうして立派な先人は謙虚でえばらないのでしょう。内村鑑三の文章にその一つのヒントをみつけました。
 「罪はこれを見留めざるべからず(認めなくてはならない)。されども、これを見つむべからず。(中略)罪を見留めずして、その中(罪の中)に死する者多し。罪を見つめて、その殺すところとなるもの(自分の罪に堪えきれず死んでしまうもの)少なからず、悔悛は悔いなき救いを得しむるの悔悛ならざるべからず。死にいたらしむ悔悛なるべからず(悔い改めることは罪からの救いを得させるものでなくてはならず、過度な悔い改めによって自分を死にいたらしめてしまうものであってはならない)。」[()内はブログ執筆者の注釈。]
 と内村鑑三は言っています。(『現代日本思想体系5,内村鑑三』(亀井勝一郎編)1963年初版.p.380,「罪の処分」より引用)。
 人は自分の罪を認めなくてはいけないが、決してそれを見つめ過ぎてはいけない。そして自分の罪を認め、しかしそれを見つめすぎることはなく、それでいて自分の罪を悔い改める者は罪からの救いを得るのだ。内村鑑三はそう言っています。
 自己中心的な考えで人を傷つけたり、わがままを言ったり、無責任であったり、そうした罪は根深くて、なかなか抜け出せるとは思えないときがあります。人それぞれ、変えたいのだけれどなかなか変えられない自分や行為があると思います。それをあんまりじっと見つめすぎると、かえって身動きがとれず、絶望的になってしまいます。
 内村鑑三は、そのように罪を見つめすぎることに注意をなげかけつつ、変えられないもんは仕方がないじゃないか、と罪から目を背けることもしません。罪を適切に見留めることによって、罪からの救いを求めるのです。繊細で難しいあり方ですが、一つの生き方としてとても参考になります。
 内村鑑三が念頭においているのは新約聖書の「コリント後書,第7章の10」からです。これも引用します。

「それ神にしたがう憂は、悔なきの救を得るの悔改を生じ、世の憂は死を生ず。視よ、汝らが神に従ひて憂ひしことは、いかばかりのはげみ・弁明・いきどほり・おそれ・愛慕・熱心・罪を責むる心などを汝らのなかに生じたりしかを。」(『文語訳新約聖書詩篇付』岩波文庫,p.409より引用)
 神に従って憂うことは、一神教を信仰しない人にとっては、自分の罪・悪行を認めることといって良いでしょう。
自分の内の罪・悪行・わがままを認めることは、様々なものを私たちのなかに生み出します。その中にはおそれや弁明だけでなく、熱心さ、罪を責める心、励みもあります。つまり罪を認めること、謙虚であることは、そんな罪を少しでも抑え、恥ずかしくない人間を目指していくためのエネルギー、向上心、力の源ともなるのです。
 立派な先人たちが謙虚であった理由の一つがここにあるように思います。
 謙虚であり、自分はまだまだだと感じることは、そんな自分を少しでもマシにしようと更に自分に磨きをかけていく努力を生みます。先人たちは自己の内の罪を見留め、至らぬ自己を恥じるからこそ、さらなる精進を続けていく向上心をもっているのでしょう。
 しかし同時に内村鑑三の言うように、罪をあんまりに見つめすぎることは自分に対する絶望を生む危険があります。かといって目を背けてはいけない。
自分の中に認めたくない、嫌なところがあることを見留めつつ、それに引きずり込まれずに、むしろそれを力の源として精進する。本当に難しいことだと思います。
 私も座禅の修行者として、まずは自分が日々重ねているわがままや怠け癖を認めること、ちゃんと反省することから、始めていきたいと思います。お読みいただきありがとうございました。

合掌 古江龍巌 九拝
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