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ブログ - お茶の歴史(7)武野紹鴎の茶道   大塚慈香

お茶の歴史(7)武野紹鴎の茶道   大塚慈香

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2018/4/16 21:31
 武野紹鴎は武野系図によると、若狭の守護大名武田の後裔(コウエイ)だということです。若狭の武田氏は甲斐の武田の分かれで、紹鴎の祖父は武田仲清(ナカキヨ)といい、応仁の大乱の時に戦死。父の信久(ノブヒサ)は諸国を流浪した挙げ句、和泉の堺に移住して、姓を武野と改めました。武具に使う皮革業を営み、一代にして財を積みました。信久の子仲村(ナカムラ)が紹鴎です。当時の最高権力者であった三好家と結んでその商売が発展し、仲村は京に上って様々な教養を身に付け、その頃衰微していた朝廷に献金し従五位下因幡(インバノ)守(カミ)に叙任されたと言われています。「山上(ヤマノウエ)宗二(ソウジ)記」によれば、紹鴎は連歌師だったと言いますから、連歌に長じた歌人だったのでしょう。茶道を下京の藤田宗理(ソウリ)及び十四屋宗悟・宗陳に修めました。三条西実隆公から、和歌は稽古と作意の二つが大切だと、藤原定家の「詠歌大概之序」の講説を受けた時力説されて、和歌や連歌ばかりでなく茶の湯の修行をする場合にも大切で、稽古と作意この両方を兼ね行なわなければ駄目だと悟りました。享禄五年(1532年)三十一才で頭を剃り紹鴎と号するようになりました。紹鴎は三十八才で武野家を相続し、巨万の財産を引き継ぎました。翌年三十九才の時、友人北向道陳の紹介で納屋衆の魚(トト)屋(ヤ)田中與兵衛の子、與四郎を弟子にしています。これが後の千の宗易、つまり利休でした。與四郎この時十九才でした。紹鴎は四十八才の時、堺の南宗寺の住職大林(タイリン)宗(シユウ)套(トウ)から一閑(イツカン)居士の号を授けられます。晩年住居を大黒(ダイコク)庵(アン)と号し、茶会を度々開いています。弘治元年(1555年)十月二十九日五十四才で病死します。
 紹鴎が、弟子の利休に与えた茶の秘伝書に「侘びの文」があります。それには、「侘びという言葉は古人もいろいろ歌にエイ詠じたけれども近くは正直につゝしみ深くおごらぬさまを侘びという。一年のうち十月こそ侘びなれ。」と述べられています。
珠光の孫弟子の紹鴎の時代になりますと、茶の湯の好みが日本化して、柔らかいものになりました。珠光までは床掛(トコガケ)は唐絵か墨跡に決まっていましたが、紹鴎の目利きにより、定家の美しい仮名書、百人一首の「八重(ヤエ)葎(ムグラ)しげれる宿のさみしさに人こそ見えね秋は来にけり」など、床掛として認められました。民間の日用雑器の一つ種壺(タネツボ)を水指に応用したのが信楽水指だそうです。素朴で侘びしい、そこが紹鴎の茶の好みにマッチしたのでしょう。棗(ナツメ)を考案したのもおそらく紹鴎であろうとされています。盛阿弥は天下一の棗師といわれます。紹鴎がこれら名人に指図して作らせた棗は主に黒漆塗りの大棗でした。これを少し小形にしたのが、利休好みの黒棗です。
 茶杓については、珠光は象牙から形をとった竹の節ナシ、紹鴎は元節、利休は中節といわれます。山上宗二記によりますと、紹鴎は六十種の名物(唐物)茶道具を所持したといわれます。彼が、巨万の富を誇る堺の分限者であったからでしょうが、その頃の茶の湯の名人としての資格の一つは唐物所持です。一品でも持たねば成りません。紹鴎の門弟は、その息子の武野宗瓦を初めとして、津田宗及(ソウキユウ)、今井宗久(ソウキユウ)、千宗易、数寄屋大名三好宗三(ソウゾウ)、松永弾正(ダンジヨウ)などで、概して堺の町人階級が多いようです。私達は茶道の開祖は珠光、中興の祖は紹鴎、教祖といえば利休としています。
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