メインメニュー
検索

ブログ - お茶の歴史(6)珠光のお茶   大塚慈香

お茶の歴史(6)珠光のお茶   大塚慈香

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2018/2/18 16:52
 東山殿で行われた書院式殿中の茶の湯に比較すると、全く対象的な町人の茶の湯を工夫したのが珠光(ジユコウ)です。
珠光の考案した下京の茶とは客と茶を点てる亭主が、一つの座敷に集(ツド)うことを建前としています。亭主自ら客の前で道具を扱い、茶を点てゝすゝめる、新しい茶の湯の考え方です。村田珠光は元、僧でしたが、茶事に熱中して寺役を怠ったため寺から追放され諸国を流浪した末、京都に来て三条町に居庵を構え、町人に茶の湯を教え、能阿弥に入門、立花と唐物の目利きを学んだといいます。次いで大徳寺の真珠庵に入り一休禅師について禅を学びます。その時、博多の崇福(スウフク)寺(ジ)から持ち帰りそのまゝにしてあった台子を大徳寺に取り寄せた一休禅師に、これで茶を点てる様式を研究するように言われ、台子を使った点前を考案したと言われています。珠光は茶禅一味の妙境を体得し、一休禅師から印可の証(アカシ)として、宋代の名僧圜悟(エンゴ)禅師の墨蹟を授かります。珠光はこの墨蹟を表装して自庵の床に掛け、ひたすら茶の湯を楽しみ、仏法も茶の湯の中にありと悟ったそうです。茶禅一味の境地です。
 立花と唐物の目利きの方法を教えた能阿弥も、珠光に茶の湯を学び、二十一ヶ条の秘伝を受けたそうです。そのことを義政に言上したので、義政も珠光に茶の湯を学ぶことになりました。能阿弥は義政に「茶の湯に身を投げ打ち、又孔子の道をも学んだ者」と言上しました。珠光の茶道には仏法のほか儒教をも加味していたようです。珠光は八十才の高齢で亡くなりました。
 珠光は茶の道を立てるために、茶席から博奕(バクエキ)と酒盛を追放しました。風姿(フウシ)花伝(カデン)書(シヨ)にもある、「好色、博奕、大酒、三(サン)重(ジユウ)戒(カイ)これ古人の掟なり」を応用して茶会の秩序を正しました。弟子達はこの戒律を守り、茶の道に精進し、その風尚が京都、奈良、堺の町々に広まったため、闘茶の遊びは急激に廃れたようです。
この時代は唐物万能でした。茶の道具として唐からきたものはなく、有名な作物(ツクモ)茄子も元来、香油の壺のようなもので、形が茄子に似ているので作物茄子と名を付けて茶入れに見立てたのは珠光です。九十九茄子とも言います。
 人の見過ごすような物の中に茶の道具として使える美を見出して使いこなす目利きも大切です。珠光はこの様な信念と見識の元に、あらゆる作意(サクイ)を凝らして茶室や茶道具を改造し、新鮮な創造を試みた為、茶生活の様相が此処に一変しました。書院の広間にかわり草庵の四畳半を真の座敷とし、これをスキヤ数寄屋と称しました。書院飾りに対して数寄屋飾りの方式を案出し、書院で用いた黒塗りの真の台子に対して白木の竹軸(タケジク)の竹の台子を考案し、床の間の掛け物は墨蹟を第一とし、唐物の茶器はたとえ下手(ゲテ)物(モノ)であっても人形手(デ)の青磁と抛(ナゲ)頭巾(ズキン)肩衝(カタツキ)など、侘びた風体(フウテイ)に富む侘び道具として愛好されました。
この時代、武人も町人も嗜みとして連歌、音曲、能、香、立花は欠かせず、茶も大切な教養の一つでした。それを珠光が取り上げて幕府の一角で興行し、やがて紹鴎(ジヨオウ)、道陳(ドウチン)によって整備整頓され、利休によって完成されました。数寄とはその文字の示す通り、数を寄せることです。その個々のものが持つ味わい以上に別の世界が醸(カモ)し出されることで、これが数寄の世界です。
珠光の名言に「藁屋(ワラヤ)に名馬繋(ツナ)ぎたるがよし」という言葉が有ります。みすぼらしい藁屋に名馬が繋がれているのは、茶の湯の取り合わせのことを言っており、何とも趣の深いものだというようです。侘びと派手との相照にこそ茶の美が有るということでしょう。これが以後に言われる、さびの境地に相当すると思われます。
 この頃の社会の様相は応仁の乱を境に一変し、下剋上の風潮が世を覆いました。義政の東山御物も転々と売買されて、次第に三好、松永らの新興大名、興福寺、本願寺など大寺院、京都・奈良・堺・越前・博多の富商の所有になってしまいました。珠光の門弟には、珠光流の二代目を嗣いだ京都の村田宗珠(ソウシユ)、松村(まつむら)珠報(シユホウ)、篠(シノ)道耳(ドウジ)他大勢います。主に堺の富商が多いようです。
 堺の、それぞれ屋号を持つ主立った商人達は名器の所有を誇り、家業に勤しむ傍ら茶道に精進、数寄者としての自信を持っていました。珠光の直(ジキ)デシ弟子、鳥井(トリイ)引拙(インセツ)、誉田(コンダ)屋(ヤ)宗宅(ソウタク)、竹蔵屋(タケクラヤ)紹滴(ジヨウテキ)などが尊敬されていました。能阿弥の弟子島右京は珠光の死後、堺の町に移住し隠者となって空海と号し、その門下に北向(キタムキ)道陳が現れました。道陳は能阿弥流の茶の湯を伝えた最後の数寄者と見なされています。千利休は最初道陳に茶を教わりました。室町時代末期になって、鳥井引拙に次ぐ名人武(タケ)野(ノ)紹(ジヨウ)鴎(オウ)が出現しました。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (179)

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://hachioji.ningenzen.jp/modules/d3blog/tb.php/573
Copyright © 人間禅西東京支部 2007-2013