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ブログ - 八木誠一『イエス』   古江龍巖

八木誠一『イエス』   古江龍巖

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2018/1/1 15:24
八木誠一という方が著された『イエス 人と思想7』(昭和43年、清水書院)を読んでいて、とても良い文章に出会えたので紹介します。

「自分の才能とか努力とか業績とかとは無関係に、まず深い意味で自分自身があるから、だから配慮の生が可能になるのではないか。(中略)実際そうなのである。そのことは、すがりつき、しがみつき追い求めていた目標から、それが達成できなければ自分の生の意味はないというような目標から、手を放してみればわかる。手を放したら、私はニヒルの底に落ちるだろうか。
事実はそうではない。そのときにはじめて私は立つのである。むしろ立てられるのである。それによって自分を立てようとしていたいっさいから手を放したとき、かえって自分が立つのである。自分に死んだとき、真の自己が生きるのだ。そのとき、今まで、これが自分だと思っていた自分がひとたび消え失せて、自分の手で立てたのではない自分、かえって「自分で」ということを可能にする自己が発見され、自覚される。
 これは自己の発見と言ってよい。自分の思いや計画や努力や所有や価値の実現や創造やに先だって、かえってこれらを可能にするような自分があることの発見だと言ってよい。配慮の営みに先だって自分がある。配慮の営みの主体(当体)は、大雑把に言えば意識的な自我である。しかしこのような自我が消滅したとき、より深い自己が発見され、確認される。これは否定すべからざる事実である。この発見の自覚の中には無限の自由と喜びと畏れがある。」(pp.116-117にかけて引用)
 多くの人は自分の価値とか目的とか評価とかのための配慮ばかりに明け暮れて、気づけばその配慮を自分の生それ自体であると勘違いしてしまう。そんな配慮の前に、まず自分自身は生きている、それが一番大事なことである、と八木誠一は言います。ただの人間であるイエスはただ人間の生き方を最も真実に生き、示した人であると考えます。(八木誠一さんはキリスト教とイエスの語ったイエスの宗教とは分けて考えなくてはならないと主張されています。)
 一番大切なことが何かを忘れてしまう、ときに気付いても、生活をしているうちにいつの間にか忘れてしまう。いろんなものが欲しくなっていろんなものを追っていくうちに、人を傷つけたり自分を傷つけたりしています。誠実に生きることは本当に難しく感じます。毎日毎日、何が大切なことなのかを確認しないと、時には全く訳のわからないことに執着していたりします。
 未熟な身なので自信を持って言うことはできませんが、坐禅をすることも、本当に大切なことは何かを確認する一つの助けになるのではないかと思います。坐禅の後は感覚が研ぎ澄まされるという経験を皆さまもよくお話しされているかと思います。坐禅の後は新鮮に世界を感じるように思います。生きているだけでも良いものだと思えるときもあります。
思い出話にはなりますが、初めて泊まり込みの摂心修行に参加した時、掃除の後自分の手を泡で洗っていると、その感覚が本当に気持ちよかったことに驚きました。何だか余計なことを考えなくても、幸せなのかもしれない、なんて思いました。晴天の下、ぽかぽか温まる体温を感じながらお寺の扉を雑巾で磨くだけでもなかなか良いもんだ、と思いました。

とは云え坐禅も悪い意味でだんだんと慣れていってしまうこともあるようで、いつでも初心に還って、一つ一つ大切に座りたいものであります。
2018年も皆さまご一緒に精進いたしましょう。
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