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ブログ - 汝、何故「坐禅」をするか?   鈴木翠珠

汝、何故「坐禅」をするか?   鈴木翠珠

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2017/12/4 21:47
 先月、大学の学園祭に出向いた時のこと。現五葉会をまとめる後輩の一人から聞いた言葉である。後輩の彼は言葉に詰まったらしい。禅と茶道の五葉会。コアは禅である。汝、何故「坐禅」をするか?
 坐禅が当然のように生活の一部となっている身としては、ちょっと考えさせられる疑問ではある。しかし、世間の人にとっての坐禅のイメージは「足が痛くなるだけ」・「警策でブッ叩かれる」・「禁欲的」…。どちらかと言うと、大いに負のイメージが強い。だからこそ、「我こそ先に!」と坐禅をする私達の存在は不思議そのものなのかもしれない。
現時点の私なりの回答をすると、「自分を見つめ直せる故、我は坐禅をする」。この一言に尽きる。延いては「一日一日の一つ一つが大事になり、味わえるようになる」。没頭していると、自分が「今」「どんな状況」なのか自分でも分からなくなる。摂心に立ち返るとよく分かる。漫然と日々を過ごしている状態で摂心に参加すると、実によく引き締められる。いわば、スーパー〇イタ人になれた心地がする。摂心が過ぎた数週間はきびきび・朝早起きである。しかし、数週間後はだんだん漫然化してくる。残念なことに少しずつ漫然化していることに自身は気付かないのである。そして再びの摂心で気付かされ、また引き締められる。…この繰り返しだ。だからこそ、あれがしたい・これがしたいの欲ばかりが消えない。それができないと、ストレスの一つとして毒が溜まっていく。あれがしたい・これがしたいに囚われて、結局本質を見誤ってしまう。全くどうしようもない。 坐禅はそうした状態になるのを寸前で止めてくれる。私なぞはまだまだ若輩者なので、止めきれていないような気がするが。
「知足」という言葉がある。つまり、「足るを知る」ということ。自分がもともと恵まれた環境にいて、「あれがしたい・これがしたい」をそれほどする必要がないことを再認識する。一朝一夕で身に着くことではないから、長い人生の目標ではある。
 しかしまぁ、禅をする方々は人格が丸みを帯びて、可愛いくなる。これが禅の不思議なところ。私の知る、禅者のおじぃ・おばぁの方々は大抵可愛い。たまに顔も真ん丸になっている。予備候補軍(今はおじぃ・おばぁに該当しない方々)も同じ道を辿ることが予想される!これは、荒い流れを越えに越え、尖った石が丸みを帯びるようなものなのかもしれない。
平成二十九年師走
 翠珠記ス
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