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ブログ - お茶の歴史(5)足利義政の時代―茶道の萌芽   大塚慈香

お茶の歴史(5)足利義政の時代―茶道の萌芽   大塚慈香

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2017/6/11 8:52
 八代将軍義政は、政治的暗闘から逃れて、京都東山の山麓に東山殿東求(トウグ)堂銀閣を建て錦鏡池を中心とする廻遊式庭園を造り僧俗一体の趣味生活に浸り、その側近に有能無比の芸術家を多数召し抱えました。将軍義政の側近の芸術家達を同朋(ドウボウ)衆(シユウ)と言います。お能の世阿弥、庭師の善阿弥と皆阿弥(アミ)号を持っています。出家と俗人との丁度中間的な存在だそうです。色々の方面に同朋衆は居ましたが、特に茶事に関係する者を茶同朋と言いました。その中で能阿弥は元朝倉家臣で連歌、立花、書画に優れ、唐物に対する目利きにも長けておりました。唐物の美術的価値、由来とかの鑑定能力を有した大芸術家で、義政の命により、この頃形成された書院造りの広間に於いて茶事を行う方式を発案しました。これが東山流と言う貴族の茶です。
義政は政治においては無策でしたが、学問芸術方面にはかなりの見識を持っており、庭園、古美術の愛好家であり、文学、立花、聞香(キキコウ)や闘茶も好み、当時の茶会に満足出来ない程趣味は高尚であったようです。
唐物は中世に渡宋の禅僧らの手によって日本に入って来ましたが、初代将軍尊氏、直義兄弟が派遣した天竜寺(テンリユウジ)船(ブネ)によって更に唐物舶来の気運が高まりました。私貿易船によっても数多くの唐物工芸品は舶来しました。これ等珍品を秘蔵した美術工芸品は東山第(ヒガシヤマダイ)に東山御物(ギヨブツ)と称し、夥しい点数です。義政と能阿弥らによって制定された東山御物の目録は今も残っています。上・中に分けられ、見事に格付けされています。義政の死後、将軍家の衰微と共に売却されたり消失したり散逸しましたが、その一部は今も各美術館に残っています。
 書院造りは室町時代中期から起こった、武家住宅建築様式で、書院の広間には床の間があり、その隣には違い棚と書院窓があり、窓の下に机が置いてあります。この構造の座敷を飾るには闘茶の会所(カイシヨ)飾りでは通用しませんので、能阿弥によって書院飾りの様式が創案されました。御飾(オカザリ)書(シヨ)によりますと、書院の間の向かって左方に、茶の湯の間(台子(ダイス)所(ドコロ))台子の向こうに金砂子の六枚又は二枚の屏風を廻らし、屏風の高さは台子の上に載せた天目が隠れる程その下座南の端に裳(モ)引(ヒキ)の大戸(オオド)があり、現今の茶道口に相当し、この外まで茶道具を運び出し、茶道具を受け取り、台子に運んで茶を点てました。勿論(モチロン)風炉です。この手水の様子など全て上座より見通しが利くようになっています。茶の湯の間は客を招じ入れるところでは無く、只、茶を点てて、飾り付けされた客座敷へ運び出される、所謂点出し方式です。屏風で囲うことから茶室を囲いと申しますのも此処から出た言葉でしょう。
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