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ブログ - 大学二年の時に始めた禅(前)   古江龍巖

大学二年の時に始めた禅(前)   古江龍巖

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2017/3/18 22:38
こんどの4月から大学四年生になります。禅は大学二年の夏から始めるようになりました。今回はどのような経緯で禅を始めようと思ったのかを書かせて頂きます。禅をされている若者は少ないので、若い方の参考になればと思います。
一年浪人はしたものの無事に大学に入学することのできた僕は、これから何をしてゆこうか、どのような職を目指そうか、悩みました。昔から考え事が好きだった僕は、次第に悩みを深めてゆき、「一体何が正しいのだろう」「何のために生きてゆくのだろう」と考えるようになってゆきました。
 そうして僕は哲学書を読むようになりました。何が正しいか、生きるとは何か、そんな答えを求めて読みました。しかしカントやニーチェ、キルケゴールやフォイエルバッハを読んでも、謎は深まるばかり。ただ、僕が興味を持っているものは哲学の中でも宗教哲学というものなのだとわかりました。
 そんなこんなで、西田幾多郎(寸心居士)著『善の研究』という本を読みました。そこでは「善とは何か」つまり「何が正しいか」が自信をもって説明されていました。浅薄な解釈で申し訳ありませんが、西田は次のように言っていると僕は思いました。 卓越した絵画を見ている時、音楽を聞いている時、我々は絵画・音楽に成り切っている。本当に見入っている時、聞き入っている時、この色、この音が良いのだとか、この調和が素晴らしいのだとか、そんな判断すらもなく、ただ、絵画・音楽だけがある。主観(見ている私)客観(見られる絵画)の区別はなくなっていて、更に知情意(知性・感情・意志)の区別もない。絵画そのもの、音楽そのものに成り切っていて、またそうした時なんとも云えぬ歓びがある。
一般に言う「私」とは、後から振り返って、あの時「絵を見ていた私」というふうに作り上げたものであって、絵画に成り切っている時、「私」というものはない。
主観客観、知情意が分かれておらず、統一されているこの状態が本来のものであって、絵画そのもの、音楽そのものに成り切っている状態を統一させている働きのような何かが「私・自己」である。つまり絵画を見、絵画に成り切っている間にその状態を貫いているような、統一させているような働きが「自己」である。
自分も世界も忘れ果てたこの統一状態において、善、正しい行為は現われる。一般に言う「私」があれこれと考えて行う行為ではなく、この集中した状態において働いている統一力に従った行為こそが、善行為・正しい行為である。
具体的に言えば、池に落ちようとしている赤ん坊を助けるとき、「可愛い」という考えの起こる余裕すらない。気づいたら助けている、我を忘れて助けている。自他を忘れたうえに働いている力に従って、助けている。
したがって善とは、何が良いか悪いか、どちらがより良いか、等をあれこれと考えれば分かるものではない。知情意を尽くし、自己の全力を尽くし、ほとんど自己の意識がなくなり、自己が自己を意識しない状態において自ずと現われるものが、善行為なのである。
この善行為を求めるには、ただ偽我(一般にいう「私」、「世界」を対象として見ている「私」、客観に対する「私」)を殺し尽くして、主観客観の分かれていない統一状態にいられるように、つまりいつでも卓越した絵画を見ているような集中状態でいられるように、鍛錬するしかない。いつでも自他を忘れて全力で生きることができれば、その生が善である。
以上のように、西田は言っていると思います。僕の拙い説明ではだめですが、『善の研究』を読んで僕はとても説得力を感じました。僕にとっての集中状態はバドミントンの試合でした。本当に集中した試合の時、自他を忘れて、ただただシャトルを追っています。どの方向に返そうとか、何のショットを打とうとか、考えることなく打ち分け、またスマッシュで飛んでくるシャトルを目で追うことなく、何だかわからないけど手が動いて、相手のコートに返しています。そうして気づいたら、勝っていたり負けていたり。いずれにしても、生きている充実感というか、そんなものがありました。 「ふむ、これだ!」と思いました。正しさはきっとここにあるのだ。そうして西田幾多郎の著作、また関連の宗教哲学の著作を読みふけりました。「これだ!これだ!」とその都度納得しました。ようやく、「何をなすべきか」希望が見えたように思いました。(続く)
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