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ブログ - 豆話   鈴木翠珠

豆話   鈴木翠珠

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
八王子支部 2017/3/11 10:24
我が家のカレンダーは株式会社シーガル製の「二十四節気・七十二候 歳時記カレンダー」(2017)を用いている。折々の季節の出来事を知ることができ、大変重宝している。
さて、当該2月のカレンダーに面白いコラム記事が載っていたのでご紹介しよう。作者名が記されておらず、一体どなた様が記したものか定かではないが…。
立春の前日、節分についてのコラム記事であった。節分と言えば、豆まきと鬼。「鬼は外!福は内!」をし、年の数だけ(実際はそれ以上だが)美味しい豆が食べられる日!である。始まりは平安時代。宮中では春が始まる前に鬼を追い、厄や災難を祓い清める「追儺(ついな)」と呼ばれる儀式が行われていた。しかし、室町以降、豆をまいて鬼を追いだす行事が民間では広まっていった。 鬼退治になぜ豆なのかー…?コラム記事はこう答える。豆が「魔目」・「魔滅」に通じるからである、と。京都には鞍馬山に出没する鬼の目に、大豆をぶつけて退治したという言い伝えがあるという。
一説に鬼の語源は「隠(おぬ)」・「陰(おん)」で暗闇に存在し姿形は見えないが、人の知恵や力が及ばない恐ろしいものであった。善や福の真逆にあるものだが、ある面でそれは人間の心に芽生え、棲み付くと厄難を起こすものと考えられる。そのため、豆まきは己の心に行うものであった。豆を食べるのも、心の中の「鬼」を追う行為なのである。
鬼などの異形の者は便宜上の姿を纏っているに過ぎない。ワケの分からんものは全て異形の者になる。大方の大半は心のまやかしに過ぎない。祓の儀式は心に溜まったケガレを流す。そのケガレを実体化させたのが鬼や妖怪等の異形の者だ。四季折々に年中行事があるのは、自身の身に巣くうケガレを認識し、それを洗い流すためにあるのかもしれない。
対して、坐禅はいつでもどこでもOK、やればやるほど心の掃除になる。「坐禅に始まり坐禅に終わる」という格言があるが、坐禅は始まりにして究極の形である。極めれば極める程、心は掃除される…筈。(※自身は禅ではまだまだ初歩の段階。確言するのは今は止しとく)

2017.3.6
翠珠 記ス
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