東京・八王子で座禅の体験 人間禅 八王子禅道場 - 最新エントリー
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今回の静座会には、いつも来て下さるベテランの方3名と、新しくいらした方2名がいらっしゃいました。新しい方と座禅の後の茶話会で、禅の話をしました。
おふたりとも働き盛りの男性で、おひとりは忙しい毎日への対応に禅に関心をお持ちになり、もうひとりの方は癌の疑いがあったことなど身体の不調が2度程あり、苦労されているとのことでした。死を意識するようになって生きる意味を問うといった思いが出てくるのではないか、という話になりました。
クリエイト静座会は、月2回実施していますが、新しい方向けに、通常45分座禅するところ、短い25分を3回座禅することにしています。初めての方でも気楽にいらして下さい。足が痛ければ椅子もあります。難行苦行ではありません。静座会は座禅体験もできますが、いかに生きるかを問うとか、心とは何かなど、様々な問題意識にも答えが出せ、禅の蘊奥を極めた老師に指導していただける修行にまで踏み込む道も開かれています。是非ご参加下さい。

クリエイト静座会、今後の予定は、
10月6日、27日、11月10日、24日の日曜日です。
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「仲よく」とは、法理的には、この世の人も物も全てを含め、それぞれ差別のあるがままの事事無碍法界の世界の有り様をさしており、ほんとうに「仲よく」できる人の境涯とは、見性了々底の観音菩薩の高い境涯になるのであります。
 「仲よく」とは、自と他の間の畦が切れていなければ、ほんとうの「仲よく」は皮相的、道徳的になってしまいます。
 すなわち、「仲よく」はお釈迦様の悟りの当体である「正しく」に裏付けられているものであり、「正しく」とこれも切り離せないものであります。
 耕雲庵老師は、また別のところで、「仲よく」が一番難しい。どうか末永く人間禅会員は、仲よくしてくれ!それを祈念する。といっておられます。
 「正しく・楽しく・仲よく」の集大成が「仲よく」に現れるということでありましょう。人間禅の中、支部の中、禅会の中、夫婦間において「仲よく」を見れば、禅者の真贋を見ることができるというものであります。そして豊かな仲の良い友人・人脈がその人の周りにあるか無いかは、その人の人間の香りと有徳(ゆうとく)の証(あかし)として、この「仲よく」の境涯が、覗(うかが)われるものであります。
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坐禅から学ぶもの(4) 大石如法

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八王子支部 2019/9/3 20:06
 いずれにしましても、僧堂というところは禅の命脈を保っているところです。最近は優しくなってきた、昔のほうが厳しかったと言う方もおりますが、こういったことは人々がずっと言ってきたことであります。きっとこれから先も、同じようなことを言うんですね。ですから、それほど大したことではないということです。
 私たちは、歳を重ねるにつれ徐々に大人になってまいりますが、修行道場では、最初に自分が役に立たない赤ん坊のようだということを知るんです。己の未熟さをこっぴどく怒られるんです。人間は怒られたときに腐らなければ成長します。誰にでも怠け心がございますが、これは精進というものによって埋められる、そういうことを学ぶんです。
 道場で長いことお世話になったお陰さまで、こうして僧侶としてお勤めさせていただいております。また、坐禅の修行をすれば、お釈迦さまや道元禅師が坐っていらした姿と同じようなことが追体験できる。法孫・仏弟子として、最も感激なことでございます。
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「楽しく」とは、これも世間の中での苦とか楽とかではありません。
「楽しく」とは、自己に合掌することであります。
自己に合掌するとは、自己の仏性に合掌する事であります。端的にいうなら見性成仏することであります。これがほんとうの(Buddha)(仏陀)に帰依したというものであります。ここに於いて始めて、法喜禅悦を感じ報恩・感謝の念が起こるのです。これ程楽しいことはないのであります。
人間禅第一世総裁耕雲庵老師曰く「一体、人間がこの世に生棲(せいせい)する上に於いて、完璧とか充足とか大成とかをもって楽しいと考えるならば、恐らく永遠に楽しいと感ずる時はないでしょう。そこに宗教の世界が展開せられるので、宗教ではありのままの姿に法喜禅悦を感じ、現状に於いて報恩感謝の念を生ずるのであります。つまり“それでよいのじゃ”と満足するのであります。他力的にいえば、何も彼もお任せするのであり、自力的にいえば、悟了同未悟に徹するということであります。これをつまり仏に帰依したといい、自己に合掌したというのであります。これが真の満足であり、ほんとうに楽しいことなのです。」と云われております。良く味わって戴ければ有難いです。
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坐禅から学ぶもの(3)   大石如法

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八王子支部 2019/8/19 16:01
 四国も歩いて周りました。京都にも足を伸ばしまして、臨済宗の天竜寺さまでは平田精耕老師、建仁寺さまでは湊素堂老師に教えを請いました。湊老師の参禅会に参加した際、一枚のかわいい子どもの絵を頂きました。この絵を見て、ちょっと境地が違うなと思いました。さらにお寺全体の掃除が行き届いています。良い道場というのは、裏に行けば分かるんです。建仁寺さまでお手洗いをお借りしましたら、台がありまして、毎日毎日何年も雑巾で拭いているせいか、ぴかぴかなんです。ぱっと天井を見上げましたら顔が映るんです。天井も雑巾掛けしてあるんですね。これは本物だと思って「来年の春から来ます」と言いました。宗派が違うわけですが、そんなことは関係ないのです。よろこんで迎えて下さいまして、また一から修行です。そんなことで何年か過ごした後、最初の最乗寺さまの余語翠巖老師の元に戻りました。そこで八年過ごしまして、さまざまなご縁をいただきました。
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 今、私は「万人にみな仏性が生れながら宿っている」、これが大乗仏教の根本教理だと申しましたが、その仏性は万人において一味平等であります。金持の仏性だから大きい、貧乏人の仏性だから小さい、聡明な人の仏性だから組織が緻密であり、頭の鈍い人のそれだから組織が粗雑であるなどということはありません。端的に申せば万人の仏性は分量も等しければ、その質も同じで平等であります。人間が平等ということは、今日では常識になっていますが、皆さんは、いったい、人間はなぜ平等だ、何において平等だとお考えになっておられますか。「憲法に書いてあるから平等だ」では答えになりません。憲法なんかに規定していなくとも、人間は太古の昔から平等なのです。「万人皆仏性をそなえ、その仏性は等質、等量である、それ故にその仏性において万人は平等である」というのが、大乗仏教の見解なのであります。又、人格は何故尊厳なのかについて、大乗仏教は、すべての人間は仏性をそなえている、いわば、自らの肉体の内に神とも仏ともいうべきものを宿している、それ故に尊厳なのだと説くのであります。大乗仏教はこのように、デモクラシーの根本原則であるが長い歴史の間に、さまざまな社会的条件に影響されて、いつの間にか人間の差別を強調し、支配階級に都合のよいイデオロギーに成りさがってしまった観があります。これは、まことに遺憾なことで、本来の仏教の姿にもどすことが、今日の仏教徒の使命であります。
 なお、脱線ついでに、もう一つ脱線しておきましょう。皆さんは禅の修行というものを、どのように考えておられますか。多くの方々は禅の修行はむずかしいもの、高遠なもの、と考えておられるようですが、元来、禅の修行というものは何もむずかしいことでも、高遠なことでもありません。今申しましたように、皆さんに、この心身を離れずに仏性が生れながらに円満に宿っておるのです。その仏性を坐禅の行を通じて発見し、発見したらこれを育てあげていき、自分を立派な佛に仕立てあげる、それだけのことです。皆さんは、自分の家のどこかに100億円のお金がかくされていると聞いたら、それを見つけようと必ずや熱心にお探しになるでしょう。ところで仏性なるものは、100億円とか何兆円とか何とも値ぶみの出来ない無上の宝物です。100億円を探すことには骨身を惜しまないのに、仏性という無上の宝物を探そうとしないとしたら、それは本末転倒だと申さねばなりますまい。この点、何卒よくお考えいただきたいものであります。

芳賀幸四郎講師略歴
1908年、山形県寒河江市に生まれる。東京文理科大学(現筑波大学)卒業、同大学教授を経て1971年定年退職。大東文化大学教授。
文学博士。
耕雲庵立田英山老師の法嗣で人間禅師家。
著書 「東山文化の研究」「千利休」「禅入門」「禅語の茶掛・一行物」「五燈会元鈔講話」など多数。
1996年 帰寂

この講演は、人間禅四国支部平成1992年11月21日、JA高知ビルで行われたもの。
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人間禅附属宏道会(剣道の会)の暑中稽古が、7月28日から始まりました、
小学校一年生から77歳までの会員が8月2日まで稽古をします。
稽古の初めに、正しく・楽しく・仲良く、を唱えて稽古をしていますが、この語について少しく述べてみたいと思います。
先ず、正しくとはどういう事かと云いますと、絶対に変わらない正しさであります。世間一般に云われている正しさとは違います。誰かが決めた正しさでは無いのです。例えば法律的や道徳的で決められた正しい事とは、時代によっては変わることもありますし、多数決による正しいことも変わることがあります。これは本当の正しい事ではありません。ここで云う正しいと言う事は、不変である正しい事であります。絶対に変わる事のない正しさを指しています。お釈迦様が暁の明星を徹見して開かれた悟りそのものであります。
お釈迦様が悟りを開かれた時、「天地と我と同根、万物と我と一体!」と叫ばれたその絶対の見地が、この「正しく」であります。 この正しくは、真理に合掌する事であります。次に後日楽しくについて述べさせて頂きます。
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白の香   鈴木翠珠

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八王子支部 2019/7/25 20:20
白の香。今のところそう表現しようがない。それを一際強く感じるのは毎年恒例で参加している十二月の冬季宿泊坐禅会(鎌倉の円覚寺)である。ここで行うことといえば、只管坐禅・作務・経行。吐く息が白く凍てつき、手足の芯はかじかむ。修行中は防寒具も靴下も履いてはならない決まり。芯から凍える寒さを裸足から一身に受け、歯の根が合わず、身震いも止まらなくなる。更け行く時間をただただ己と向き合うだけである。今年を含めると六回程度参加している。何故こんなつらい目に遭いに毎年参加するのだろう。
   最初は寒さとの「闘い」であった。ガチガチと鳴らす歯を必死で抑えようと、懸命に大きな呼吸を繰り返す。しかし、決して止まらなかった。次に、寒さとの「調和」になった。寒さを「寒さ」として受け入れる。ありのままを受け止める。身震いはなくなったわけではないが、最初よりも大分治まった。最後は寒さからの「超越」になりつつある。寒さを越えた先が、あの白の香である。例えば、一晩中雪が降り、静寂な朝を迎えることと似ている。微かに立てる音すらも雪の白さに吸収され、今まで目に慣れた風景が白色の無の世界に一変する。鎌倉の地は都会の喧騒から一切離れた場所。山門を閉じた後は毎日白の香に包まれる。その先にあるのは寒さによって恵みを得た、気高さや勤勉、忍耐強さである。
寒さは生きとし生けるものに味わいを与えてくれる。和菓子作りに欠かせない寒天。冬に作るからこそ質が良くなる。津軽のこぎん刺し。幾何学的なあの美しさは野良作業ができない真冬に女性達によってもともとは作られていた。例を挙げればきりがない。
人生は選択の連続で彩られている。何かを選べば、何かは捨てる。選んだ結末に後悔せず、自律した人生を歩んでいくにあたって、あの白の香が間違いなく今後の糧となるだろう。あの寒さを内包した香ともつかない香に私は今も惹かれ続けている。      翠珠記ス
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坐禅から学ぶもの(2)   大石如法

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八王子支部 2019/7/14 12:41
 私が最初にあがった修行道場は小田原の大雄山最乗寺さまでした。成願寺さまともご縁が深い古刹ですが、一年目は辞めたくてしょうがなかったんです。カレンダーに一日過ぎると✕印を入れるくらいでした。毎日毎日✕を入れるのですが、果てしない。百日くらいそうしていますと、だんだん飽きてきまして、ちゃんとやらなければいけないな、と思うようになりました。二、三年経ちますと後輩もたくさんできて少し偉そうな気持ちになる。で、もうそろそろ辞めようかなとある方に相談に参りましたら、「偉そうなことを言うようになったね」なんて言われました。ではもう少し修行を重ねようと考えまして、別の道場へも行ってみようかと草鞋を履いて、色々なところを歩いて巡ったのです。
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参加者
一般の方 ベテランの方 3名  新到の方 1名
会員   加藤紫光

クリエイト静座会では、静座を新しい方向けに1回25分を3回行います。(普通は1回45分) 座禅をするのが初めての方でも、椅子がありますので、気軽に取り組めます。少しずつ足を組み、痛みも慣れてくれば和らぎ、集中して座禅三昧になってくるでしょう。一人で座るより仲間と座る方が、励まし合ったり、自分にも厳しくなれたりするので、是非静座会に時間をつけてご参加下さい。また、座禅会だけでは物足りない、本格の道を求める方には、2カ月に1度位摂心会という、老師に指導していただける場もあります。これが座禅三昧になれる近道かもしれません。それぞれの方に合った座禅ができますので、是非ご参加下さい。

クリエイト静座会今後の予定
7月7日、21日  8月4日、18日  9月1日、15日
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