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(2)茶の湯の現状①
 ところで、現在、茶の湯の現状はどのようでしょうか。それは一口にいって、これから私が述べる本当の茶の湯、茶道というものからは大分遠いように思われます。
 茶道第一の書と言われる『南方録』の滅後の巻にはすでに、利休の言われた言葉として、次のように記されております。
「十年ヲ不過(すぎず)、茶ノ本道捨(すた)ルベシ」。この意味は、自分の死後、十年もたたないうちに、茶の本来の姿はすたるであろうというのです。そして、「スタル時、世間ニテハ却而(かえって)茶ノ湯繁昌ト思ベキ也」と続いています。本来の茶道の姿が見失われて行くであろうけれども、そういう時はかえって茶の湯が繁昌して、多数の人が関心をもつに違いないというのです。
 『南方録』は、利休の弟子南方宗啓が、平素の師の教えを書きとめた、いわゆる聞き書きですが、滅後の巻は利休の三回忌に際して書かれたと伝えられます。たしかに利休の死後、茶の湯は、その創成期の生き生きとした息吹きを失い、だんだんと硬直化、形式化の道をたどり、先人の遺した形や寸法に固執するのみで、自由な茶の心を失ってきているといわれます。
 利休流の茶の湯は、その子孫や弟子によって多数の流派に分かれて伝えられてきましたが、現在、茶を習う人口は今までにないほどの多数にのぼって、まさに繁昌しております。とくに婦人が好んで稽古をするようになりましたので、一見まことに茶の湯の世界ははなやかに隆盛しています。しかし、このように普及してきますと、安易に流れやすく、稽古事として、点前の順序や道具の扱い、作法を覚えるに止まって、茶道の本質が忘れ去られていくのではないかと思われます。
 元来、日常茶飯事の言葉の通り、茶の湯は日々の生活の営みに深くかかわってくるはずなのに、特定の茶室のなかや茶会のいわゆる晴れの場に限られて存在すると錯覚してきてはいないでしょうか。さらに茶会を催す折に、道具屋より目新しい高価な道具を備えて借りる風潮がみられると聞きますと、「茶の道すたるべし」の指摘の通りといわざるを得ないのではないかと思います。
 ある人は、このような稽古や茶会の現状を茶の湯の疑似体験と酷しく批評しております。にせの体験というのです。せっかく茶の稽古によって学んだ技法や心入れを日常生活に生かすまでに深めないならば、単なる手すさびに終わってしまうのです。一時の体験に止めてしまうのは、あまりにも惜しいことです。永年にわたって茶の湯を生活に浸透させ、それによって人間形成していくことが望まれます。
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(1)茶の湯の側面②
 伝統的に培われた点前や道具、建物、庭など有形無形の深い趣をもつ茶の美に魅せられ、芸術的価値を見出している立場もありましょう。また、心のこもった社交の儀礼として、つまりセレモニーの方法と評価する見方もあります。
 なお極端な見方として、金持ちの道楽に過ぎないと否定的に見る見方があります。本来道楽とは、道を楽しむことで高次の楽しみのはずですが、現在普通に使われる意味の道楽とみなす見方です。財力にまかせて高い茶器を買い、ぜいたくな茶室を建てるなど、茶の湯が、庶民から遠い、金のかかる道楽となっているという批判です。
 たしかに、茶の湯文化は奥が深く、多面的な要素をもっています。人びとはそれぞれの立場や関心から自由に茶の湯にかかわっているのですから、見方や評価が分かれても仕方がありません。ここで以上のことを整理してみますと、茶の湯には、儀礼、社交、芸術、修行という性格があるといえると思います。
 そこで、本当に深く茶の湯の豊かな文化とその心を味わいたいとするならば、茶の湯の本質とは一体どんなものか、日本を代表する最も日本的な味わいとその文化体系とはどんなものか、もう少し茶の湯の世界に分け入って考えてみなければならないと思います。
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(1)茶の湯の側面①
 まず茶の湯ということですが、日本文化のなかでも、最も日本文化らしい特色をもち、世界にも誇りうる極めて格調の高い文化といわれています。
 茶はもともと中国より伝わったものです。しかし、中国流の茶の製法と飲み方を取り入れてから、日本においては、茶の湯、茶道という独特の文化形式を育てあげてきたのです。つい先頃、日本の茶道のある家元の方が中国に行かれ、時の政治家や一般の方々に、日本式のお茶を点てて飲んで頂き、親善をはかったという報道がありました。つまりお茶の逆輸入によって文化交流を果たしたということです。中国の方々から、今までこのような飲み方を知らなかったと大変喜ばれたという話です。
 また先日は、ソ連の高官の来日を歓迎して、東京都で茶会を催したということも伝わってきましたが、このような例を挙げるまでもなく、日本文化を外国に紹介するときには、ほとんど決まったように茶の湯が取り上げられます。日本文化の代表のように扱われるわけですが、では、かえりみて、わが国の人々は茶の湯をどのように認識しているのでしょうか。これにはさまざまの見方や評価がなされています。
 第一に、茶の湯は非常に格式ばったやかましい作法があって窮屈な古めかしいものという表面的な認識があります。あるいは、若い女性が結婚前に礼儀作法を習う稽古事に過ぎないと見る見方もあります。あるいは、日本的に趣味や教養を身につける風流の道という位置づけもされていると思います。またお茶を通して人生を味わい人間形成をはかろうと願う人びともあるでしょう。
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五戒の二番目は、怠けてはいけない。
これは正しく・楽しく・仲良くの中の、「楽しく」になります。
怠けてはいけないは人間の本能として、楽をしたい、ついつい怠けてしまうのです。これは毎日の積み重ねが大切なのですが、怠けない、毎日コツコツと積み重ねて実行すると言う事がなかなか出来ません。
ついつい楽な方に流れてしまいます。言葉は易しいですが、いざ実行するとなるとこれほど難しい事はありません。怠けずに自分で決めたことを毎日必ず実行する事は本当に大変です。毎日怠けない様にしたいものです。これが実行できると毎日が本当の意味で楽しく過ごすことが出来ると思います。
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禅と茶道   緝熙庵内田慧純老禅子

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八王子支部 2019/11/29 16:29
1現代と茶道 利休に帰れ
 茶味という題で、これからお話をするわけですが、お茶の世界は、入れば入るほど奥深く、とても一片のお話でもって、その味わいを語ることはできません。ただ将来、茶道に親しまれ、その行に精進されて、茶味を味わいつつ豊かな茶の文化を楽しまれる契機となることを願いつつお話をすすめてみたいと思います。


今回、緝熙庵内田慧純老禅子の「禅と茶道」をブログに掲載しようと思ったのは、禅の蘊奥を極めた老禅子の語り口が素晴らしく、禅についても茶道についてもわかりやすく書かれているからです。茶禅一味と言われるように、禅の心を表したものが茶道と言えるのではないでしょうか。これから順次掲載していきます。(このお話は、千葉大学教養部の総合科目の講義で、「茶味―茶禅一味の茶について」と題してなされたものですが、後で「禅と茶道」という題に変えて一冊の書となったものです。) 加藤紫光
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坐禅から学ぶもの(7)   大石如法

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執筆 : 
八王子支部 2019/11/18 16:15
 坐禅中、その瞬間、瞬間、自分がいま何をしているか、ただ漠然と坐っているだけではなくて、体をコントロールしています。息を整え、体を動かさないようにしています。そこで気をつけて頂きたいのは、自分の意志をすぐ行動に移さないということです。例えば、どこかが痒いと掻きたくなります。それをまず知ること。自分が動きたいことを知ればよいのです。そこで思考が止まります。足が痺れれば動かしたくなります。そういう欲や感情が生まれることは悪いことではありませんが、その姿を知ることです。その事実を知り、そこからふくらませないのです。そうすれば心や感情というものは、どんどん移っていきます。
 みなさんは、濁った水をコップですくってきたような状態です。黙って置いておけば、澄んできます。ところが自分でああしようこうしようと思ってしまう。これは、棒を突っ込んでかき回しているようなものなのです。坐禅というのは、止まるということが、実は動いているということの証になっています。独楽と同じです。しっかりと回っていれば、はたからは止まって見えますね。坐禅も無意識にコントロールできていれば、止まっていられる。それができずに足が痛い、おでこが痒いと思っていますとぐらぐらしてくるのです。
 私たちは誰しもが健康に心がけ、体を大切にすることを考えますが、残念ながら体は否応もなく衰えていきます。生まれるということは、いずれ死ぬことです。花というものは枯れるもの。これは真義です。真義の上から答えを導き出すこと、それを智慧といいます。ですから、最初の部分が真義でなかったら、そこから得られる知識は智慧とは言えません。これはみなさんそれぞれで気がついていただきたいことです。
 車で考えますと、タイヤを変えたりエンジンを直したりしましても、それだけでは走りません。運転手がきちんと運転しなければ車は走ることができない。
これを身体に置き換えますと、運転手に当たるのが心です。人間というのは、心が動かしているのです。でもその心をコントロールするのがなかなか難しい。私たちは、ずっと立っていますと坐りたくなります。ずっと坐っていますと立ちたくなります。お腹が空けばなにか食べたくなりますが、食べ過ぎれば今度は苦しくなってしまう。苦から楽へ行ったと思って気がつけば、また苦になっていた。こうしたことの繰り返しなのです。
 でもそんな私たちの道しるべとなるのがお釈迦さまの教えであります。曹洞宗では、お釈迦さまのことを大恩教主と申し上げます。お釈迦さまは父であり、最高の先生なのです。合掌
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個性とは?   加藤紫光

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執筆 : 
八王子支部 2019/11/2 21:10
 個性とは何だろう。辞書には、「他の誰とも違う、その人特有の性質、個人性」とある。
 中学の時、私は自分が何者か、何か長所と言えるものはないか、自分の中に確たるものが無くて沈んでいた。長所があるとすれば音楽好き。ピアノとフルートができる。運動はダメ。勉強は人並みにしていたので、ちょっと背伸びをして高校は進学校に入り、ブランドを手に入れた。親は喜んでくれたし、中学の友達は多少尊敬の念を持って見てくれた。しかし、高校に入って、まわりは色々なことに秀でた、それこそ個性的な人が多く、私の個性はどんどんしぼんでいった。他人との比較ばかりの日々。自分のアイデンティティー、ほんとうの自分、自分らしさを持てない。本当の勉強とは何?
 大学受験は苦しかった。しかし、入学した中央大学で五葉会という禅のサークルに入会、サークルとつながっていた人間禅に入門し、自己を確立することができたから、仏縁に恵まれたことは有難い。もちろん、禅も一直線に進めたのではなく、人生いろいろな中で、ああでもない、こうでもない、という迷い日々もあった。しかし、禅の修行を続けてきて、今本当に良かったと実感する。心とは、アイデンティティーとは、自信とは、そして個性とは、に答えが出た。
 誰もが持つ心というものをつかみ、育てるうちに、自然と力が生れみなぎり、一瞬一瞬、目の前のことに全力を注ぎながら、木を見て森を見ず、という状態にもならないように取り組む。道場には、「日々新たにして日々新た」という言葉があるが、日々新たな発見の連続で、自分の中の心を育て、成長していくことが楽しい。
 個性とは、自分に自信を持ち、研ぎ澄まされた感性を持ち、さまざまな人と切磋琢磨し色々なことを吸収し学んでいく中で、独自のものの見方や言行動が生れるところに現れるのではないか。
 心に芯ができる、アイデンティティーが確立される。禅は他者との切磋琢磨はもちろんするが、他者との比較ではない、絶対的な自己の確立を目指す。禅は、さまざまな問題意識に答えを出すだろう。
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心の状態を整える「禅」(メディテーション)の、もっとも基本となる3ステップです。
心の波立ちや感情のざわめきを鎮めて、磨きぬかれた「鏡」のようなクリアな状態にすることによって、夜空に浮かぶ満月を、鮮やかに、ありのままに映し取ることができるようになります。
曇りなき心の状態に近づくにつれて、自分の偏見やエゴ(我見)を入れずに、
ものごとの真の姿を映しとることができるとともに、自分自身の内なる声(ボイス)をも、
よりはっきりと聴き取ることができるようになります。

1:「調身」 ➜姿勢を正すこと。
背筋を伸ばし、地球の中心から垂直に立てることで、
感情が静まり雑念が入りにくくなります。
身体の使い方は、感情の状態と密接にかかわりあっていて、
落ち着いた所作や振る舞いは、心の安定を反映させたものでもあるのです。
最初は意識して姿勢を整えることで、慣れてくると習慣的に、
姿勢と気持ちを整えることができるようになります。

2:「調息」 ➜呼吸を整えること。
ひとつ、ひとつの、呼吸をゆっくりと数えることに集中していきます。
吸って、吐いて、いーち…。吸って、吐いて、にーい…。
途中で切れ目なく、できるだけ雑念が入らないように、
「身体」と「呼吸」と「意識」をひとつに重ね合わせていくこと。
それ以外の考え(雑念)が浮かんだ時には、「自覚」をして手放します。
雑念(最初の一念)が浮かんだことをモニター出来ている意識の状態がとても重要であり、
そうすることによって、エゴ(自己中心的な意識)の罠を、回避できるようになるのです。

3:「調心」 ➜心がクリアになること。
リラックスしつつ集中した状態が深まると
「三昧」(サマーディ)という意識の状態に入ります。
(スポーツで言う「ゾーン」の状態)
この「三昧力」を深め育てていくことが、「三昧」の3つの側面をさらに強化し、
ブレない自分を鍛えていく大きな鍵になるのです。
そして、その「三昧」の状態をつうじて、私たちは内なる「源」(ソース)に
つながることができるようになります。
松田大愚拝
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坐禅から学ぶもの(6)   大石如法

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執筆 : 
八王子支部 2019/10/14 22:25
無意識のコントロール

 考えてみますと、世の中の事象というのはコマ送りのように進んでいます。瞬間、瞬間、瞬間、その連続です。なにかに集中していましても、パンッと手を叩けばそちらに意識がいってしまう。私が「こちらを見てください」と言えばこっちに意識がいきますね。そうやって心が働いています。
 ただ、思考しないでいただきたいのです。例えばパトカーの音がしても、パトカーだと思わない。そこには音がしているだけです。匂いがしてきても、「ウナギかな」とか「カレーのにおいだ」とか妄想を働かさない。私たちは実際に目の前にあるわけでもないのに、自分で妄想してしまいます。なかなか難しいとは思いますが、ただ聞く、ただ匂う。感覚をしっかりと使っていただきたいのです。わかりやすく申しますと、お茶を飲むときには、自分の心は舌先にあります。お風呂に入ったときには、肌に心があるのです。
 坐っていますと足がしびれて痛くなります。でも苦しいと思わない、痛みと苦しみは違います。最近のお葬儀で、参列のみなさんは椅子に坐られますが、お坊さんだけ座布団に正座ということがございます。お経が終わってお坊さんがちゃんと立ちますと、「やっぱり偉いね」なんて言われるわけですが、こちらは、自分の足がどこにあるのか探すような状況です。でも、分からなくなってから自分の足を探すようではダメなんです。分かるうちに探しておく。それで分からない状態にならないように無意識にコントロールするのです。
 また早朝に坐禅をすれば眠気がくるときもございます。でも眠気を押さえられないということは、心に隙がある。または興味がないということです。楽しいときは眠たくなりませんよね。それでもどうしても眠気が来ましたら、その時は警策(きょうさく)で叩かれてください。そうしましたら、自分は眠たかったんだな、ということが分かります。
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五戒の一番目は、嘘をついてはいけない。
これは正しく・楽しく・仲良くの中の、正しくになります。
人間として他に対して嘘をつかないと言う事は当然の事と思いますが、此の嘘をつかないは、自分で自分に嘘をつかない、と言う事です。平生普段の生活の中で、今日は是をしよう、あれをしようと自分で決めていながら、中々その通りに実行することは大変であり、難しい事であります。これは将に自分で自分に嘘をつく、と言う事になります。人間として生きて行く中で、これほど難しい事は無いのではないでしょうか、我々人間禅では、一日一炷香を実行しようと言う事を云われますが、本当に実行できておりますか、反省しなければなりません。
一日線香一本座禅しましょうと言う事を実行する、毎日の積み重ねが、人間形成には必要不可欠です。他人ごとではありません、一日の反省の糧に、五戒を実践したいと思います。
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